口絵・本文イラスト●ヤスダスズヒト編集●児玉拓也プロローグどこからか声が聞こえる。それは心地よく、穏《おだ》やかで優しい。  甘い蜜《みつ》の香りが、頬《ほお》を撫《な》でる風のように忍び寄る。  包み込むように、誘うように、少女の声は心に直接染み込んでくる。  あなたは驚いて目を覚ます。しかし、いまだ夢の中なのだと自覚する。  曖昧《あいまい》な地面の上に、少女が一人立っている。  彼女は笑っている。とても冷たい笑顔で笑っている。  あるいは、瞬《まばた》きをしてからもう一度よく見ると、不安そうな顔をしているようにも思える。とても寂しそうに、こちらを覗《のぞ》き込んでいるようにも見える。心細く、助けを求めているようにさえ。  薄い唇の奥に、真っ赤な舌が見えた。  懸せすぎの細い腕で黒い髪の毛をかきあげると・シャープな舞が浮き上がる・畷『ルビーのように深い赤をしていた。血液にも似た深みのあるレッド。 「あなたは、どうして生きているの?」  不意に少女はあなたに向かって言った。それは彼女自身が、自分に問いかけているようにも聞こえる。  あなたは、どうして生きているの? わたしは、どうして生きているの? 「生きていて楽しい? 辛《つら》いことばかりじゃない?」  あなたが返事を戸惑っていると、彼女は質問を続けた。体に絡《から》みつくようなタイトな真紅のワンピース。指先にも同じ色のマニキュアがベットリと塗られている。 「想像してみて。あなたは未完成のパズル。まだほんの少ししか形を見ることができない。だけどこれからの人生、あなたの思い描くような絵が出来上がると思う? 全《すべ》てのピースを見つけて、きちんと最後まで完成することができると思う?」  あなたは考える。これからの人生のことを。自分の望むピースのことを。  しかし、思考の泥沼に足をとられ、様々な失敗の雨に飲み込まれそうになってしまう。  彼女の言うとおり、自分の欲しがっているピースを集めることなんてできそうにないと感じる。そもそも、あなたは自分がどんなピースを探しているのかさえわからない。 「だったら……」  少女はあなたの手を握る。彼女の指先は酷《ひど》く痩《や》せていて、とても頼りない。  人形のように血の気のない肌をしている。体温を感じることさえできない。 「もう、おしまいにしましょう? こっちにおいで? きっと、楽になれるわ」  そう言って少女は、ダンスに誘うようにあなたの手を引いた。  力は強くない。あなたに判断を委《ゆだ》ねているように思える。  あなたは怖くなって彼女から離れる。 「どうして……?」  少女は悲しそうに手を離す。  そして夢は終わる。いつもと変わらない朝がくる。  あなたの背中は冷たい汗で濡《ぬ》れていた。  これが、菊本《きくもと》高校の一年A組の生徒のほとんどが同時に見た、ある夜の夢であった。  第一章チアガールごめんなさい神山佐間太郎《かみやまさまたろう》は、神様の息子である。  その日、佐間太郎はいつもと同じ目覚まし時計のベルで目を覚ました。  寝癖《ねぐせ》なのか癖っ毛なのか、ボサボサの髪の毛を乱暴に手でボリボリボリンとかく。高校]年生にしては幼さが残る顔の上で、栗色《くりいろひ》の瞳《とみ》がパッツンパッツンと瞬《まばた》きを繰り返す。  カーテンを開けると、九月の中旬らしいお日様が 「はい、九月の中旬です」という感じで輝いていた。どんな感じかよくわからないが、極端に暑くもなく寒くもない、秋の始まりを予感させるアンニュイな天気だと思って頂ければいいだろう。  そろそろTシャツにハーフパンツで寝るのも肌寒くなってきた。クローゼットの奥にしまってある、三本線の入ったジャージでも出そうかなと思いつつ、彼は大きくアクビをする。こうして彼のことを見ていると、ごく平凡な家庭に育つ、ごく平凡な男子高校生に思えるかもしれない。  しかし事実はそうではないのだ。  彼は神様の息子であり、立派な神様になるために人間界に修行にきている神様候補なのである。……一度にいっぱい 「神様」 「神様」と書くと嘘《うそ》くさいが、本当なのだから仕方がない。うんうん。 「はあふう……眠たい」  やる気なく大きなアクビをしているが、世界の未来は彼にかかっているのである。だから、なるべく温かい目で見ていこうじゃないか。彼のことを。  佐間太郎は窓の外から視線を移し、自分が今まで寝ていたベッドを振り返った。  すると、今度はさっきのアクビよりも数段大きく口を開けたのだった。さらに、目までカコッと見開く。なんなら、耳もクパッと開いた。驚けば耳ぐらい開くものである。  どうして彼は、朝からそんな驚愕顔《きようがくフエイス》をしているのか。理由は簡単である。ベッドの上に、いつの間にかチアガール姿の母親が寝転がっていたからだ。  想像して欲しい。母親がチアガールの格好で、さっきまで自分が眠っていたベッドに寝そべっているところを。  なにに使うつもりだったのか、手にはチアガールらしくバトンが握られている。彼女はそれをヌイグルミでも抱きしめるかのように持ちながら、むにゃむにゃと[を動かした。 「わあああああ! オフクロ1なんでベッドにー7」  当然と言えば当然の反応をしながら、佐間太郎は部屋の隅にズザザザと後退する。  その悲鳴を聞いた熟睡チアリーダーは、おねむな調子で目をこすると上半身だけをゆっくりと起こした。シャツには大きな文字で 「V」と書いてある。 「あ。佐間太郎《さまたろう》ちゃん。ふあいとお〜。びくとりい〜」  なに? なにがファイト? なににビクトリー?  物凄《ものすご》くミニなプリーツスカートから、むっちりとした太ももが伸びている。無造作に寝転がっていたものだから、その露出具合といったらただごとではない。  肩の下まで伸びた髪の毛が、 「セクシーでごさいます」という感じで彼女の体に絡《から》みつく。  母親という年齢を感じさせない瑞《みずみず》々しい肢体《したい》をゴニョゴニョと動かしながら、夢の中から必死に抜け出そうとしている。  佐間太郎は思わず視線を逸《そ》らし、壁の方を向きながら母親に抗議をした。 「何度言ったらわっかんだよ1勝手に部屋に入ってくんなって言っただろP」 「え〜。でも、応援の時は別じゃないの? ふあいとっ」 「別じゃねえ! どんな時でも勝手に入ってくんな! そもそも、なんの応援だよ1」  彼女は悪《わる》びれる様子もなく、寝ぼけ眼《まなこ》でバトンを掲げると、昨日ちょっと練習しただけです、という頼りない調子でそれをクルクルと回しだした。 「なにって、佐間太郎ちゃんの人生の応援に決まってるじゃない。くるくる。これからの人生ふあいとっ、ってことでしょう? くるくる」  なんと漠然とした応援なのだろう。人生頑張れ。そんな大雑把《おおざつば》な応援をされても、なにをどう頑張ればいいのかわからない。 「ふあいとお〜、佐間太郎《さまたろう》ちゃん、いろいろふあいとお〜」  いろいろってなんだろう。かなり守備範囲の広い応援をしていた彼女だったが、眠気のせいか練習不足なのか、ベッドと壁の隙間《すきま》にバトンを落としてしまった。 「あ、バトンが。チアガールの魂が隙間に……」  そんなことを言いながら、彼女は四つんばいになってバトンを拾う。もちろんミニスカートをはいているのだから、後ろから見たらパンツが丸見えである。 「見えてる! オフクロ、なんか見えてるから!」 「おばけp」 「じゃなくて! 下着の類《たぐい》が見えてるから1」 「え? 見えてる? 大丈夫? ちゃんとよく見えてる? 今日はホワイトよ! オフホワイトよ! チアガールの魂はホワイトなのよ1」 「バトンが魂だったんじゃなかったのかよ! いいからしまえ! しまってくれ!」  母親は隙間に落ちたバトンを拾うのを諦《あきら》め、ベッドの上に正座をすると悲しそうな調子で彼に訴えた。一応なるべく露出しないようにと、折りたたまれた太ももの上でスカートの裾《すそ》を引っ張っている。 「ぐすん。せっかく佐間太郎ちゃんの心のオアシスになろうと思ったのに、失敗しちゃったみたいね。悲しい。ママさん悲しい。野球が延長して、予約録画してたドラマが半分だけ録《シロ》れてなかったぐらい悲しい」 「そんな具体的な例えはいらん」 「ぐっしゅん。でもわかって、これも愛情ゆえなのよ? 佐間太郎ちゃんがかわいくてかわいくて仕方ないから。ビデオのッメを.回折ったとこに、セロテープ貼《は》ってもう一度録画するぐらいかわいいの!」 「いや、その例えはわからん」 「わーん! なんでわかってくれないの! 佐間太郎ちゃんのバカ! ママさんグレちゃうからねー! 夜中のコンビニの前でドクターペッパー飲みまくっちゃうからねー!」  彼女はそう言って大げさに泣き出した。佐間太郎はやれやれとため息をつく。  なにせ、こうして勝手に部屋に入ってきて一緒に寝ようとするのは、今日が初めてではない。むしろ、それほど珍しいことではないのだ。  少し前までは 「ついつい寝ぼけちゃって」と言い訳していたが、最近ではコスプレかまして進入してくるなど、開き直っているとしか思えない。大好きな息子の部屋に入って一緒に寝るののどこが悪いの1という意思がチアガールの衣装を通じて伝わってきそうである。そんな熱い意思、いらない。 「えす、えー、えむ、え」、ていー、えー、あっおー」  泣きながらも 「Qり〉】≦〉→〉幻O」とチアガールっぼく呼んでいる彼女は、ママさんこと神山《かみやま》ビーナスだ。佐間太郎《さまたろう》の母親で、女神様なのである。  女神様がこんな調子でいいのかと誰《だれ》もが思うだろう。しかし、実際にこうなのだからしかたがない。我々人間は、あるべき姿を受け入れるしかないのだ。たとえチアガールの格好をした女神様でも、それを受け入れるしかないのである。 「じゃあママさん、ちょっと脱ぐから」 「なんで脱ぐんだよ! 全然意味わかんねえから!」 「いいじゃない脱ぐくらい! ビーナスっつたら脱いでナンボでしょ! 貝、用意して、貝! 貝の中から誕生するから1」  ママさんはヒステリックに喚《わめ》きながら、ブワッサブワッサと服を脱ぎ始めた。佐間太郎は慌《あわ》てて部屋から飛び出ると、バシンとドアを閉めて廊下にへたり込む。 「はあ……なんなんだよ一体……」  すると、目の前を妹のメメがトテトテと横切っていった。 「お兄ちゃん、おはよう」  彼女は小学五年生の女の子だ。小さな体に大きなランドセルを背負い、体育着袋なんぞをプラプラと揺らしながら廊下を歩いている。少しアッシュがかったショートカットが、小学生らしからぬ大人の雰囲気をかもし出している。涼しげな目元も、年齢より落ち着いて見える原因になっていた。そしてなにより、どんなことがあっても無表情。これがメメの一番の特徴であろう。クールなのか、何事に対しても関心がないのかは謎《なぞ》だ。  彼女は女神候補であり、佐間太郎と同じように人間界で女神になるための修行をしている。と言っても、その具体的な内容を彼は知らない。以前ママさんに聞こうとしたことがあるのだが 「女の子だけの秘密なんです! 佐間太郎ちゃんには言えません!」と言われてしまった。ママさんはその後、二人の娘を自室に連れていくと、なにやらビデオの上映会を行ったのだった。  女子だけに見せる秘密のビデオ。小学校の時も、そういうシチュエーションがあったような気がする。女子だけが視聴覚室に集まり、秘密のスライドを見ていたのだ。  ・佐間太郎はそれがなんなのか気になったが、結局謎のままになってしまった(女神修行[の謎も、視聴覚室のスライドの謎も、である)。 「ん……? なんだこれ?」  廊下に座り込む佐間太郎の目の前に、なにかが落ちているのに気づいた。それは袋に入った、三十センチぐらいの棒状の物だった。きっとメメの落とした縦笛だろう。彼はそれを拾うと、階段を降りようとしている彼女に声をかけた。 「おい、メメ。これ、落としたぞ」 「あ。バトン」 「バトン?」  佐間太郎《さまたろう》はその袋の中をそっと覗《のぞ》いた。普通なら縦笛が入っているはずの袋の中に、なぜかチアガール用のバトンがひっそりとしまわれていた。 「どわ! メメ! なんでバトンー7」  そう言った瞬間、メメの服がおかしいことに気づく。妙に短いプリーツスカート。大きく 「E」という文字の入ったシャツ。ああ、これってもしかして、チアガール? 「今週はチアガール週間だから、これ着なさいってママが……」  あの女神か。あの女神の妙な指示なのか。佐間太郎は脱力しながら、メメの肩にそっと手を置いた。 「いいかいメメ。これからオフクロの言うことは聞いちゃダメだよ? あの女神、ちょっと頭おかしいからね。一旦《いつたん》、テンコか姉ちゃんに確認するんだよ」 「確認したよ。お姉ちゃんに」 「姉ちゃんにつ・」  その時、佐間太郎の姉である美佐《みさ》の部屋のドアがゆっくりと開いた。中から出てきたのは、 「」」と書いてあるシャツを着た、チアガール姿の彼女だった。  母親のママさんを、そのまま若くしたような彼女もまた、女神候補である。佐間太郎よりも二歳年上の美佐は、その美貌《びほう》とは正反対のオヤジ的な性格をしている。それさえなければ、いい姉なんだけどなーと、佐間太郎のため息が尽きることはない。 「やべ。もう見つかった」  そう言うと美佐は、ばつの悪そうな顔をして部屋へと戻っていった。モデルと間違えてしまうほどのスタイルの良さは、妙にチアガール姿が似合うのでムカつく。 「姉ちゃん! オフクロと一緒にメメに変なこと教えるのやめてくれ!」  佐間太郎は閉じたドアのノブをガコガコ回しながら、必死で抗議をする。 「だってー、ママさんが応援したいって言うからさー。応援だったらチアガールじゃない? ってちょっと言っただけだもーん」 「つうか姉ちゃんか! 姉ちゃんが原因じゃねえか!」 「違うもーん! もんもんもーん!」 「なにかわいこぶってんだよ! この! 《ロ》」  佐《ド》間太郎はドアの向こうにいる美佐を責めながら、ひとつの考えが頭に浮かんだ。ママ・さんのシャツには 「V」。そしてメメには 「E」、美佐には 「」」。これはもしかして、あ・の単語を表しているのではないだろうか。だとしたら、もう一文字必要なはずだ。  彼は急いで階段を降りると、台所で朝食の準備をしていたテンコに声をかける。 「おい、大丈夫か! 変な洋服着せられてないかP」 「えっ? なに、どしたの俘」  彼女は驚いた様子で緯蕪の方を振り返る。エプ・ンで手を丁寧に梼いた後・彼をマジマジと見て顔をしかめた。 「なに? なんでバトン持ってるの? 趣味?」  そう言われて、メメから奪い取ったバトンを力強く握り締めていたことに佐間太郎は気づく。 「いや、趣味じゃなくて……」 「朝から妙な趣味に付き合わせないでよね。ゴハン作らなくちゃいけないんだから」  ともかく、テンコはチアガールの格好を強要されていないようだった。もちろん彼女のことだから、たとえ衣装を差し出されても断固として拒否しているだろう。 「す、すまん。気にしないでくれ」  それにしても……。佐間太郎には疑問が残る。 「」」 「V」 「E」は確認した。もう一文字は、誰が着ているのだろうか。 「まさか」  彼の頭の中には、最悪の予想が広がるのだった。  ……その頃《ころ》。天国では佐間太郎の父親であり神様であるパパさんが、パッツンパッツンのチアガールの衣装を着ていた。  想像して頂きたい。普段はランニングに腹巻を巻いた姿のおじさんが、チアガールのコスプレをしているのだ。しかも顔を真っ赤にして、露出したスネ毛だらけの足なんぞを気にしている。そもそも彼は、気に入らないことがあるとちゃぶ台をひっくり返しかねないガンコ親父タイプの顔をしているのだ。そんな中年男性のチアである。嫌なチアだ。 「ちょっと恥ずかしい」  パパさんの手には、シッカリとバトンが握られている。もちろんシャツの胸には 「0」  という文字が見えた。その光景は、佐間太郎の頭の中に広がった最悪の光景と寸分たがわず同じだったのである。  読者諸君。これが神様家族の日常である。心を広くして受け入れて頂きたい。  おとぼけ応援団に応援されながら、佐間太郎は今日も学校へと通学する。それがなんの応援か理解できなくとも、ともかく彼は通学する。なぜなら、それが次期神様としての修行だからである。  彼は、人間としてこの世界で生活することにより、人々の気持ちを理解し、将来神様になった時に役立てる修行をしているのだ。  しかし次期神様を一人で行動させるわけにはいかない。人間の世界には色々な誘惑が多いのだ。そんな様々な誘惑やらなんやらから彼を守るための人物が、天使のテンコである。  彼女もまた佐間太郎と同様に、人間の高校生という姿でこの世界に存在していた。  愛嬌《あいきよう》たっぷりに跳《は》ねた毛先を揺らしながら、佐間太郎《さまたろう》と並んで学校へと向かう。  子犬みたいに大きな瞳《ひとみ》が、彼女のひとなつこさを表している。その愛くるしさの裏に、キレるとすぐ人を叩《たた》く凶暴な一面が隠れているとは誰《だれ》も思うまい。  途中で多くのクラスメイトが二人に挨拶《あいさつ》をし、その中の何人かが 「今日も二人は仲がいいねえ」とからかっていく。その度《たび》に彼女は 「そんなんじゃないからね!」と顔を真っ赤にして否定し、佐間太郎は興味なさそうに視線を逸《そ》らす。  テンコは、佐間太郎が生まれた病院の前に捨てられていたという設定で同級生にお馴染《なじ》みになっている。捨て子の彼女を佐間太郎の父親であるパパさんが拾い、我が子として迎え入れたわけだ。しかし、実際のところは兄妹というよりは、幼馴染《おさななじ》みのような関係の二人に見える。そもそも彼女は自分が捨て子だということを明るく友人に話すわけだし、そのことについての負い目はないようだ。 「あらあら、テンコちゃんてば本当は辛《つら》いのに、こんなに明るく振舞って……。なんて良い子なのかしら1テンコカワイイ! テンコ健気《けなげ》! テンコそりゃちょっと暴力的でアレでも仕方ないっ!」  クラスメイトからはそんな評価を受けている彼女だが、本当はテンコが捨てられたことも、病院の前で見つかったことも、神山《かみやま》家の子供として育ったことも、全《すべ》ては神様であるパパさんが仕組んだことなのである。  当然彼女もそれを知っているので、まるで気になんてしていないのも当然というわけだ。  そんなわけで、 「健気なテンコちゃん」という評判はクラスメイトによる一方的な勘違いなのだが、彼女も佐間太郎もそんなことは気にしていない。ま、いっか、の世界なのだった。 「よー! お二人さん、元気かーい?」  二人が通学路を歩いていると、一人の男子生徒が声をかけてきた。少し明るめに染めた髪の毛を手でいじりながら、ステップを踏むように登場したのはクラスメイトの霧島進一《きりしましんいち》である。彼の姿を見た途端、佐間太郎とテンコの顔はゲッソリとした。その変化に気づいた進一は、アメリカ人のコメディアンのように大げさに笑う。 「なに、どしたの? むしろ、どうしたんだよ! 俺《おれ》の登場がそんなに気に入らないのか! あれか、俺はダメか! 俺はダメなのか! 俺はダメですか! ウフ、ダメです。ダメなんです、最近の俺ってばダメなんですよ。うふふ、あはは、えへへ〜」  確かにダメだ。いや、まるでダメだ。最近の彼は妙にテンションが高い。空を見上げてはスキップをし、雲を見つめてはラジオ体操第二の最初の運動をし、風が吹けば桶屋《おけや》が儲《もう》かるのである。なんだかよくわからないだろうが、とにかくそれぐらいダメなのだ。 「あのさ。ダメなのは前から知ってるけど、それをわざわざアピールしなくてもいいから。はい、さっさと登校。きびきび歩くっ」  テンコは彼の方を見ないでそう言うと、佐間太郎の手を取って歩きだした。バカには関わらない方がいいという、まっとうな意思による行動だ。 「にゃ1なんでテンコちゃん、ちょっと冷たいじゃな〜い。聞いてくれないの、進一《しんいち》のビッグニュース!」 「聞かない。っていうか、もう聞いた。七十回ぐらい同じニュース聞いた」 「違うの! ノーなの1今日は最新速報が入ってるんですよ1聞きたいでしょ? 聞きたいでしょつ・むしろ君がオシャレ情報発信基地となり、世界にこのニュースを報道してくれ!」 「オシャレは関係ないし、そもそも発信しません! 基地じゃないし!」  進一のことを相手にせず歩く二人だが、その後をグラディウスのオプションのようにチヨロチョロと彼はついて回る。まったく、厄介《やつかい》である。 「なあ佐間太郎《さまたろう》! お前は聞きたいだろ? ニュース! 俺《おれ》ニュース!」  テンコに相手にされないとわかると、今度は佐間太郎に照準を合わせる。どうしても二人に報道したい速報があるらしい。 「いや、興味ない」 「だから! んもう! 本当は聞きたいくせに1そういう我慢、よくないよ! じゃあ、コホン、仕方ない、発表してあげます。ありがたく聞けよお〜」  どう答えても結局こういうことになるんじゃないか。佐間太郎はそう思いながらも、テンコに掴《つか》まれている手が、妙に汗ばんでいるのが気になった。 「じゃかじゃ〜ん、なんとこの霧島《きりしま》進一っ1愛《あい》ちゃんと手を繋《つな》いでしまいましたー1」  勝利宣言のように声も高らかに進一は言った。そして、右手をグッと空に掲げ、涙を流さんばかりの勢いで叫《さけ》ぶ。 「神様、ありがとう! 女の子の手って、あんなにも柔らかいものなんですね! やっぱり女の子を作った神様って偉大だ! 俺は神に感謝する1」  もちろん彼は、その神様がチアガールの格好でモジモジしていたことなど知る由もない。  人生、知らない方が幸せだということもあるってことですね。  佐間太郎もテンコも、そのニュースを聞いて驚くことはなかった。なぜなら、最近の彼のニュースは、もっぱら 「新しくできたガールフレンドの愛ちゃん」のことばかりだからだ。昨日だって進一は 「ニュースです! 愛ちゃんと一緒に帰りました!」と言っていたし、その前は 「ニュースです! 愛ちゃんと視線が絡《から》みました!」などと叫んでいた。  ようするに、ようやくできたガールフレンドとの出来事を、逐一《ちくいち》二人に報告しているのである。なんとはた迷惑な進一であろうか。 「なあ佐間太郎、お前は知っているかい、女の子の手の柔らかさを。そしてその温《ぬく》もりを。あれはあれだなあ、あれだぞ、恋の予感だ。むしろ、恋の始まりだ……」  などと言いつつ、彼の視線は目の前で絡んでいる佐間太郎とテンコの手に注がれた。  佐間太郎《さまたろう》はそれに気づき、急いで手を振り解《まど》こうとするが、テンコは彼の手をキツく握り締めて離そうとしない。 「おい、テンコ、離せ! 離すんだ1」 「なんでPこんなバカ放っておいて、さっさと学校行くんだからね。ほらほらほら」 「いや、そうじゃなくて、その、手がね、問題なんですけど」 「手? 手って? 手? 手……」  進一《しんいち》は、二人が握り合った手を見ながらウンウンと頷《うなず》いている。その笑顔は、無駄に愛が溢《あふ》れていた。 「そうそう、わかるわかる」  彼が言うのと同時に、テンコは汚い物でも触ったかのように勢いよく手を離した。 「ちょーっと! そうじゃなくてね、違いますからね! 誤解しないでくださいっ1」  さらにさっきまで佐間太郎の手を握っていた方の手を自分の制服に擦《こす》りつけ、バッチイバッチイとばかりに拭《ふ》きまくる。なにもそこまで、というほど拭《ぬぐ》った後に、ようやく彼女は平静を取り戻した。佐間太郎は、俺ってそんなに汚いのだろうかと、心の中でちょっとショックを受ける。 「もう、遅刻しちゃうからね!」  そう言ってテンコは一人でズンズカと歩き出した。佐間太郎と進一は、彼女の後に続いて学校への坂道を歩く。急に手を握ったり離したり、忙しい天使である。  二人に背を向けるテンコの顔は、紅葉《もみじ》のように赤かった。佐間太郎とはなんでもない、そう意識すればするほど心が火照《ほて》ってくるのを感じる。実際のところ、なんでもないわけではないのだ。彼女は佐間太郎に恋心のような感情を確かに感じていた。  しかし、今まで恋なんてしたことのないテンコにとって、それは、やっぱり、ただの勘違いなんじゃないかなーと思ってみたり、いやはや、やっぱりこれは乙女心が奏《かな》でるラブな音色《ねいう》なんじゃないかなーとドキドキしてみたりする。  夜中にベッドの中でそんなことを考え、布団《ふとん》を抱きしめながらジタバタしてみたり、頭から湯気をプシュプシュ出してみたりと相当悩んだものの、結局今になってもその答えは出ていない。  あるいは、答えなんてとうに出ているのかもしれない。それでも、その感情を認めたくないのか、結論を延ばし延ばしにしている。  自分は神様候補である佐間太郎の監視役であり、天使なのだ。神様に対して恋愛感情など持ってはいけないのだ。そんな妙に真面目《まじめ》な性格が、この問題をややこしくしているのだろう。  そんなことを考えつつ歩いていると、テンコの頭からは本人が気づかない内に小さく煙が吹き出ていた。それは天使の輪のような形になると、そのまますぐに消えてしまう。  どういう構造になっているかはわからないが、テンコは興奮すると頭から湯気だか煙だか、妙な白っこい物が出るようになってるのだ。  本来ならばそれを隠さなくてはならないのだが、なにしろ興奮した時に勝手に出てしまうので抑えようがない。したがって、その湯気へのフォローは、目下佐間太郎《もつかさまたろう》の役目になっている。  進一《しんいち》は、ズカズカと前を歩くテンコを見ながら、不思議そうに彼に聞いた。 「なあ佐間太郎。さっきからテンコちゃんの頭から、湯気出てねえ?」 「え? 出てないって。気のせいだよ」 「気のせいじゃねえよー頭のてっぺんからプシュプシユって! 沸騰してる!」 「あ、キワどい赤いビキニを着た女の子が歩いてる。しかも胸には『抱いて』の三文字」 「えP…どこどこ俘教えろ! どこだよ、早く! 早く!」 「あ。ごめん、間違えた。ポストだった。書いてあるのは『ハガキ』の三文字だった」 「なんだよー、ちっくしょう! 期待して損した!……あれ? なんの話だっけ?」 「さあ?」  ってな具合に。  額に汗を浮かべながら、校門へ続く坂道を歩いていると、三人の前に一人の少女が現れた。三つ編みにした髪の毛を揺らし、カバンを持っていない方の手を恥ずかしそうに挙げる。図書委員とか学級委員とか、その手の肩書きが似合うであろう真面目《まじめ》そうな女子生徒である。テンコは、彼女を見るとなんだか無性に世話を焼きたくなってしまう。  ゴハン食べた? お風呂《ふろ》入った?  彼女が子供じみた顔をしているからではない。全身から醸《かも》し出される 「雰囲気」がテンコにそう思わせるのである。世の中には、そういった種類の女の子が少なからずいるものだ。テンコにとって彼女が、ズバリなのである。 「進一くん、おはよっ」  菊本《きくもと》高校特有の制服は、タイトな白いワンピースにオレンジのラインが入ったものだ。  そのオレンジのラインよりも、やや赤みがかった色の頬《ほお》をして彼女は笑う。 「うはっ! 愛《あい》ちゃん!」  進一は愛の声を聞くなり、大げさに飛び上がって坂道を駆け上がる。ハァハァと息を切らせながら彼女の元に辿《たど》り着くと、いつの時代の青春ドラマだというぐらいの笑顔を炸裂《さくれつ》させた。 「おはよう。今日もカワイイね。むしろ、昨日よりカワイイね。まるで毎日カワイクなっていくよ! 君は! 魔法か! それは恋の魔法なのかっ!」  愛は彼の白く光る(ように彼女には見えた)歯の眩《まぶ》しさに目を細めつつ、カバンからハンカチを取り出した。彼女はそのハンカチを進一《しんいち》の額に重ねると、ポンポンと軽く汗を拭《ふ》く。愛《あい》が動く度に、カバンにつけてあるキーホルダ! の小さな人形が揺れた。  もちろん彼女ー橘愛《たちばな》1こそが進一にできた初のガールフレンドである。佐間太郎《さまたろう》とテンコは二人の詳しいなれそめを知らないが、二人は知らない間に親交を深めたらしい。  愛は夏休みの前までは地味で暗い女の子だったが、新学期が始まってから急に明るくなったのだという。夏休み中に非行に走り、新学期に茶色く染めた髪の毛で登校する生徒は少なくないが、休みの間に健康的にポジティブになったというのは珍しい例である。  愛にどんなことが起こったのか、クラスメイトは知らない。その出来事を知っているのは神様だけ。まさに、 「神のみぞ知る」なのである。 「あーあ。嫌よね、でれでれしちゃってさ」、テンコは鼻の下を伸ばす進一を見ながら、呆《あき》れた調子で言った。 「佐間太郎、うちらも早く行こうよ。本当に遅刻しちゃうから」  彼女はもう一度佐間太郎の手を取った。佐間太郎はその手を振り解《ほど》こうかどうか迷ったが、なんとなくそのままにした。  進一と愛まで追いつくと、テンコは彼女に言う。 「愛ちゃんてば、そいつのどこがいいの?」 「え? どこって、どういう意味ですか?」 「だってさ。そんな顔だし、そんな性格だし、なんていうか、そんなじゃない?」 「あはは。うんとですね、その、なんとなく、ですかね」  なんとなく、という言葉を聞いて進一は少しガッカリした顔になる。テンコは意地悪そうに笑って、彼女を突っつく。 「なんとなくで好きになったの? 愛ちゃんもなかなかファジーだね。言わないか、今はファジーとか言わないか?」  からかわれてしまった愛だが、真《ま》っ直《す》ぐテンコを見つめて言った。 「特別な理由って、すぐ出てこないんですよ。もちろん、ここが良いっていうのもありますけど、じゃあそれがなくなったら好きじゃなくなるかって言ったら違うし。なんていうかですね、全体的に、ほんわわーんと、進一くんのことが気に入っているんです」  とても曖昧《あいまい》な表現だったが、テンコには彼女の言っていることがわかるような気がした。  好きなところもたくさんある、嫌いなところもたくさんある、そんな中で、もっと相手を知りたい、もっと仲良くなりたい、そう思うことが『好き』ってことなんじゃないかなと考えていたからだ。 「そうだね。確かにそういうもんかも知れないね」  テンコはそう言って、チラッと佐間太郎の方を見た。彼は興味なさそうに道端のポストかなんかを眺めていた。きっとコイツは、こういう話題にはチートモ興味ないんだろうなあと彼女は思う。 「ところでテンコさんは、神山《かみやま》くんのどこが好きなんですか?」 「はっP…」  あまりに突然の不意打ちに、テンコはカツラが取れた課長のような声を出してしまった。  どんな声だかよくわからないが、とにかくビックリした時に出る本能的な声である。 「あ、あたしは、別に、佐間太郎《さまたろう》のことなんて好きとかじゃないしっ1」  などと否定するものの、彼女はシッカリと佐間太郎の手を握っている。愛《あい》はそんなテンコを見ながら、ニコニコと笑う。 「見ててわかりますよ。よっぽど好きなんだなって。神山くんも、テンコさんのこと嫌いじゃないですよね?」 「はっ17」  カツラが取れた部長の声を出したのは、佐間太郎である。 「おれ 「俺な 「ださって》はコイツのことなんて、どうも思ってないから! そういう勘違いやめれ!」  などと否定するものの、やはり彼もテンコの手を握っている。 「だったらどうして手なんて握ってるんですか? 普通、握りませんよ?」  さっきと変わらない調子で、ニコニコと愛は言った。佐間太郎とテンコはキツく握り合っている手を同時に見た後、急いでその手を引っぺがした。 『別に好きじゃないから1』  佐間太郎とテンコは、同時に彼女に向かって叫《さけ》んだ。その見事なハモりっぷりを聞いて、愛はニッコリとする。 「うふふ。とっても仲がいいんですね?」  二人は反論しようとするが、またハモってしまっては困るとウググと口を閉じた。 「それじゃ行きましょう? 進一《しんいち》くん、遅れないように……」  愛が振り返ると、顔に浮かんでいた笑顔が不意に消えた。それどころか、目にウルウルと涙が溜《た》まりだした。佐間太郎はどうしたのかと進一の方を見る。答えはすぐにわかった。 「……あの娘《こ》、いいな……」  進一の視線の先には、ジャージ姿で坂道を走っている女子生徒がいたのだ。部活の朝練《あされん》かなにかだろう、汗を浮かべながら黙々と走っている。  彼は愛の存在などすっかり忘れ、その女の子に夢中になっている。それどころか、佐間太郎に同意を求めはじめた。 「なあ佐間太郎、あの娘、絶対にカワイイよな? つうか、きっと性格もいいそ? マラソンが好きな人に悪い人はいないんだ。な?」  と言いながら振り返ると、そこには涙をボッタンボタンと流す人物が。もちろん、愛である。 「進一《しんいら》くんなんか大嫌い! もう絶交です1」  彼女はそう叫《さけ》ぶと、坂道をダッシュで走り去ってしまった。進一は 「しまったー! つい癖《くせ》で!」と言いながら、その場に崩れ落ちる。  佐間太郎《さまたろう》とテンコは、その様子を呆《あさ》れた顔で見ていた。なんのことはない、進一が他《ほか》の女の子に見とれ、愛《あい》が怒るというのもいつものパターンなのである。  だからこそテンコは 「そいつのどこがいいの?」と聞いたのであった。  それにしても、毎日こんな調子で、よく愛は進一に愛想《あいそ》を尽かさないものだ。  もしかしたら、こんなところも含めて、彼のことが好きなのだろうか? 「いや、そんなことないか……」  テンコは大きくため息をつくのだった。  教室に着くと、すぐにホームルームの開始を知らせるベルが鳴った。進一は愛のいる一年B組のクラスから戻ってくると、ここA組にある自分の席へと座った。  既《すで》に佐間太郎とテンコは窓際の席に着き、教師がやってくるのを待っている。  しばらくして教師がやってきて、ホームルームを始めた。秋の読書週間がどうだとか、運動会に向けての準備をだとか、教室中の誰《だれ》もが興味を持たない平凡な話が続いた。  テンコは気付かれないように、佐間太郎の横顔を盗み見する。夏の初めの頃《ころ》とは違う、少し男の子っぼくなった表情を見ていると、不思議な感じがした。  ここのところの佐間太郎は、急に変わり始めているような気がする。顔つきも行動も、昔のような子供っぽいところが徐々に薄れつつあるように思えた。  もちろんバカ話だってするし、トボけたことだって言ったりもする。ただ、以前のように他人《ひと》任せで、身勝手な、僕はこの世の中に全然興味がありません、というような態度を見せることが少なくなってきたのだ。  テンコは登校中のことを思い出し、自分の手をグッと握り締めた。  生まれた時から一緒にいる佐間太郎。子供の頃はテンコの方が背も高かったし、手だって大きかった。いつも彼女が彼をリードし、お姉さんのように世話を焼いてきた。  今では信じられない話だが、彼はなにかというとすぐ泣いてしまう癖があって、犬が怖いだの車の騒音が大きいだのとメソメソとしていた。  家に帰ればママさんが付きっ切りで佐間太郎の面倒を見ていたが、外に出た場合はその役目をテンコが負っていた。  いつまでも泣き止《や》まない佐間太郎の頭を撫《な》で、なだめ、そして手を繋《つな》いで一緒に家まで帰ったものだ。  テンコは子供心に、こんな泣き虫が神様の候補だなんて先が思いやられると呆れた。  自分がしっかりしなくてはならない。佐間太郎が一人前の神様になれるかどうかは自分次第なのだ。そう言い聞かせ、根気良く彼と向き合った。  それが中学に入った頃《ころ》から、佐間太郎《さまたろう》の背はどんどん伸びはじめ、あっという間にテンコを追い抜いてしまった。手だってずっと彼女よりも大きくなったし、すぐに泣くようなこともなくなった。ようやくマトモになったのだなと安心したが、今度は別のことに悩まされることになる。  彼は子供の頃から神様であるパパさんの甘い教育により、すっかり世の中に興味をなくしてしまったのだった。  欲しいものがあれば、なんでもすぐに手に入る。嫌なことがあれば、パパさんがそれをなくしてくれる。こうなればいいと思えば、全《すべ》てがそうなってしまう。  全てが思いどおりに動く世界を退屈だと感じてしまうようになってしまった。  それからの彼は、いつもボケッとしていて、あまり笑わなくなってしまう。  いつも空ばかり見ていて、誰《だれ》かがなにを言っても無関心でい続け、自分が神様の息子であり、人間界にいるのは修行なのだということすらも忘れてしまっているような状態がしばらく続いた。  永遠にこのままになってしまうのではないか。テンコの心配をよそに、彼は一気に目を覚ます。それは、夏に起こった 「初恋」がキッカケだった。  菊本《きくもと》高校に転入してきた女の子に、佐間太郎は一目惚《ひとめぼ》れをしたのだった。  いつもならパパさんの奇跡により、恋なんて簡単にできてしまうのだが、その時ばかりはいくつかの偶然が重なってそうはいかなかった。  そこで佐間太郎は自分自身の力で初恋を成就《じようじゆ》させることを決意した。  結局、初恋の相手はすぐに転校していってしまい、結果がどうなったのかは曖昧《あいまい》なままだ。しかし、その初恋以来、佐間太郎は自分でなにかをしようという気持ちになったようで、以前のような他力本願《たりきほんがん》な生き方をしなくなった。  それにともない、奇跡を起こし続けていたパパさんも天国へと単身赴任し、彼を甘やかせるようなことはしなくなった。  佐間太郎の顔は少しだけ大人っぼくなり、神様候補としての自覚を持つことができた。  ・それと同時に、テンコは居心地の悪さを感じることになってしまう。 「もし佐間太郎が一人で神様候補として立派にやっていけるなら、あたしは別にいらない─んじゃないの?」  佐間太郎に聞こえないように、小さな声で彼女はそう眩《つぶや》く。いつからか、ずっと心にある不安要素がそれなのである。  考えても仕方ないことだが、どうしても気になってしまう。  コ人前の神様になったら、その監視役であるあたしは不必要な存在になっちゃうの?」  テンコは黒板を眺めている彼に向かって、そう眩く。 「そしたらあたし、どうすればいいの?」  しかし佐間太郎《さまたろう》にその声は届かない。彼女は、いつも自分の存在意義について考える。  そして、答えを出せないままに時間が過ぎていく。  もし佐間太郎が自分のことを必要としてくれるんだったら、あたしはいつまででもこの世界にいることができるのに。どんな時だって安心していることができるのに。 「ん? なんだ?」  いつの間にか、佐間太郎はテンコの方を向いていた。ガッツリと目と目を合わせ、真正面から見つめ合っている状態になっていたのだ。考え事に没頭していたテンコは、それに気付かなかったのである。 「うわ! な、なんでもないっ。なんでもないですっ」 「そうなの? なんでもないなら、人の顔見るなよ。気になるから」 「はい、見ません。もう一生見ません」  コ生じゃなくていいけどね……」  こんな風にして、天使のテンコの日常は繰り返されていった。  ……その夜、テンコは何者かの声を聞くことになる。声は、彼女自身の存在意義を真っ向から否定するような、ずっと恐れていたものだった。  家に帰ると、いつものように家族のリクエストを反映させつつの夕食作り。それが終わるとバスタブを洗い、お風呂《ふろ》に湯を溜《た》め、朝の内に干しておいた洗濯物をたたむ。  神山《かみやま》家の全員が入浴したのを確認してから、一番最後の湯船にテンコは浸《つ》かった。  体を温め終わると全身を丁寧に洗い、それからパジャマに着替える。  自分の部屋に戻る前に、メメが布団《ふとん》を蹴飛《けと》ばしていないか様子を見て、それからようやくベッドへと潜り込んだ。  窓の外から鈴虫の鳴く声が聞こえる。ほんの少し前までは、それがセミの声だった。移り行く季節に感心しながら目を閉じると、どこか遠くから、その声が聞こえてきたのだった。  一『テンコ……テンコ:…・』  …最《ワ》初、それはパパさんが自分に送ってきた声だと思った。神山家の家族の問には、心の.声や自分のイメージを相手に送ることができる特殊な力があるからだ。  テンコは重くなってきたまぶたを擦《こす》りつつ、天国にいるパパさんに映像を飛ばした。 『パパさーん。パパさん。呼びましたか?』  しかし返事はない。この意思のやりとりは、テレビ電話と同じようなシステムでできていた。こちらがいくら呼びかけても、応答がなければ相手のイメージは伝わってこない。  ・パパさんからの返事がないとなると、今は寝ているか、あるいは意識してイメージを遮断《しやだん》しているのだろう。もしかすると、仕事の最中で邪魔をされたくないのかもしれない。  となると、さつき聞こえたのは男の声だったから、テンコにメッセージを送ったのは佐間太郎《さまたろう》ということになる。ママさんや美佐《みさ》、そしてメメの声じゃないことは確かだ。  テンコは佐間太郎へと意識を集中して声を飛ばす。 『佐間太郎。ね、凡ね、凡、なんか用?』  しばらくして、眠そうな声と共に、大きなアクビをする彼のイメージが届いてきた。テンコの目の前には、ホログラムのような立体画像で、佐間太郎の顔がボンヤリと浮かぶ。 『ふあ〜あ。え? なに?』 『なに、じゃなくて。さっき男の人の声が聞えたんだけど、あんたじゃないの?』  暗闇《くらやみ》の中に浮かぶ彼の顔は、眠いせいか妙にテンコの顔の近くに寄ってくる。そんなに近づかないでよね……と思いながらも、それを口には出さずに彼女は続けた。 『パパさんかと思ったんだけど返事ないから、だったらあんたじゃないかと思って』 『俺《おれ》じゃないよ。寝ようと思ってたとこだもん』 『そっか。そんならいい。おやすみっ』  テンコは意識を遮断《しやだん》して、無理やり彼のイメージを暗闇の中へと消した。あんまり近くで顔を見ていては、変にドキドキしてしまいそうだったからだ。 「でも……、だとすると誰《だれ》なんだろう。気のせいかな?」  謎《ナゾ》の声は空耳だということにして、彼女は眠りにつこうとする。  だが、さっきよりもずっとハッキリした声で、それは繰り返された。 『テンコ……。テンコ。聞こえているなら目を開けるんだ』  驚いてテンコは目を開ける。その声は、今までに聞いたことのない男の声だった。  慌《あわ》てて部屋の中を見回すが、人の気配はしない。となると、やはりそれは自分の心の中に直接響く、テレパシーのようなものだ。 「誰? 誰なの?」  恐る恐る口に出すと、正体不明の声は満足したように返事をした。 『わたしが誰かなんてことはどうでもいい話だ。それより今日は、お前に用があってやってきたのだ』 「用? あたしに?」  テンコは布団《ふとん》を手繰《たぐ》り寄せ、ギュッと握り締めた。こんなこと、今まで一度もなかった。  誰かが自分に用があるなんて。なんなのだろう。どういうことなのだろう。 『お前の役目はもう終わったはずだ。そろそろ天国に戻る頃《ころ》なんじゃないのか?』  その言葉に、テンコは返事ができなかった。ここのところ、彼女自身が悩んでいることをズバリと言い当てられたような気がしたからだ。  彼女の動揺を知ってか知らずか、声の主は続ける。 『お前の役目は佐間太郎《さまたろう》様を見守ることだった。神様の候補として自覚を持つまで、監視するというものだ。最近の佐間太郎様はきちんと自分なりに考えを持ち、少しずつだが次期神様として行動しはじめた。ということは、もうお前の役目は終わったんじゃないのか?』  謎《なぞ》の声に、テンコは反論する。自分でも知らない間に涙声になっていた。 「そんなことないです。佐間太郎はまだまだガキだし、自覚、全然足りません。だからあたしがいなきゃダメなんです。だから、まだまだ役目なんて終わってません!」  彼女しかいない部屋に、虚《むな》しく声が響く。謎の声は、迷うことなく言った。 『そもそも、お前自身が迷っているのではないか? このまま佐間太郎様の元にいていいのかどうか。そんな天使が近くにいたところで、役には立つまい。もうお前の仕事は終わったのだよ。これからは佐間太郎様が一人で自覚的に神様への道を進んでいくのだ』  声の言っていることを聞いていると、テンコの中でやりきれない感情が膨れ上がってくる。それは、声の言い分があまりにも正しいような気がしてならないからだ。 「なによ! あんた、誰なのよ! あんたに佐間太郎のなにがわかるのよ!」  彼女は感情的に叫《さけ》ぶと、布団《ふとん》の中に潜り込んで耳を塞《ふさ》ぎ、心をシャットアウトした。  誰からの言葉も届かないように、かたく心を閉ざす。  奥歯を噛《か》み締めながら時間をやり過ごし、少しずつ神経を通常の状態へと戻していく。  もしかしたら、またあの声が聞えてくるかと怯《おび》えていたが、その夜に彼女に問いかけるものはなかった。  テンコは眠る前に、もしかしたらあの声は自分自身の物なのかも知れないとさえ思った。  いつも自分が不安に思っている気持ちが、正体不明の声となって自らの心に問いかけてきたのかと。  どっちにしろ過ぎてしまっては、それを確かめる術《すべ》などどこにもない。  これも 「神のみぞ知る」ということなのだ。  翌朝、テンコの様子がおかしいことに佐間太郎は気付いた。一緒に朝食を取っていても、ボンヤリとしている。今日は珍しくパパさん以外の全員が一堂に食卓についているが、彼女の変化に気付くものはいない。心配になった彼は、ママさんにイメージを飛ばした。 『なあオフクロ。テンコの様子おかしくない?』  急に飛んできた心の声に、ママさんはピクンッと反応する。そして、横目で見るとか、さり気なく盗み見るとか色々と方法はあるというのに、いきなりテンコの顔を両手でガッと掴《つか》むと、ミリ単位で顔を近づけて睨《にら》みつけるように凝視した。 「な、なんなんですか19」  さすがのテンコも、いきなり頭の両サイドを掴まれて顔を睨まれたら冷静でいられない。  茶碗《ちやわん》とハシを持ちながらジタバタと抗議するが、ママさんは気にする様子もない。 「ふむ1」  ママさんは満足したのか、そう言うとテンコから手を離す。まだなにが起こったのか理解できない彼女を尻目《しりめ》に、食事の続きを取りながら佐間太郎《さまたろう》に声を送った。 『そう? 普通じゃない?』 『つうか、そんな確かめ方すんなよ!』  呆気《あつけ》に取られていた佐間太郎だったが、一連のママさんのアグレッシブな行動に文句を漏らす。 『え〜。だって、顔見ないとわかんないんだもん。もぐもぐ』 『もぐもぐじゃなくてよ! もういい、オフクロには頼まない』 『ええっー9”頼んでよ! なんでもかんでもママさんに頼んでよお〜』  ママさんはグスグスと涙ぐみながら佐間太郎を見つめるが、もう彼はテレパシーをシャットアウトして彼女からの意見を聞くことをやめてしまう。  涙目になっているママさんを見て、テンコはなにがあったのかと慌《あわ》てる。 「あの、ママさん。お味噌汁《みそしる》、ちょっと辛《から》かったですか?」  気を使ってそう尋ねるテンコだが、ママさんは茶碗とハシを食卓に叩《たた》きつけると 「なんでもないわよ! うわーん1」  と言って部屋へと走り去ってしまった。テンコはなにが起こったのか理解できずに、ポカーンとしている。しかし、メメも美佐《みさ》も 「いつものヒステリーだ」とばかりに興味を示さず、ポリポリと福神漬《ふくじんづ》けを食べた。 「ねえ佐間太郎、あたし、ママさんになんかした?」 「い、いや。してねえ。うんと、その、たぶん、そういう時期なんだよ」 「そういう時期ってなによ」 「反抗期」 「なるほど」  テンコは佐間太郎の言葉に納得し、食事を再開した。  一うーむ、やはりオフクロに聞いたのが間違いだったか。佐間太郎はそう思い、今度は美佐に声を送る。 『なあ、姉ちゃん。テンコの様子、おかしくない?』  美佐はピクッと体を反応させ、片目だけでテンコを見る。そうそう、やはり内緒話というのは、こういう感じで内緒にしなくてはならない。 『さあ? おかしいっちゃおかしいけど、いつものことじゃない』 『いつものことなのか?』 『そうよ。あんたがハッキリしないからでしょ』 「ブハッ!」  佐間太郎《さまたろう》は、思わず鼻の穴から米を撒《ま》き散らしてしまう。 「あああああ! 佐間太郎、なにしてんのPぞうきんぞうきんっ1」  テンコはそう言って、慌《あわただ》しく席を立った。彼は顔についた米つぶを指でつまみながら、美佐《みさ》へとメッセージを送る。 『な、なんだよそれ。どういう意味だよ』 『どうもこうもないじゃない。テンコはあんたに気があんの、知ってるでしょ? それなのに幼馴染《おさななじ》み扱いするから、いつも機嫌悪いのよ』  あまりにも直球な意見に、佐間太郎はモゴモゴと口を動かす。どう返事をしていいかすらわからない。うろたえる佐間太郎に、美佐はハシでピシッと向けて断言した。 『抱きなさい』 『抱くかっ1なんだそれ!』 『物事が停滞した時には、起爆剤が必要。現状打破。それがフトゥ!』 『だから、抱くって、どういう意味だよ1』 『どういう意味か教えてあげようか? まずね、テンコのショーツを脱がして……』 『もういい! もういいから!』  佐間太郎は心の中でそう叫《さけ》び、美佐との会話を終了させた。なにがショーツだ。普段はパンツとかなんとか言うくせに、わざとエロい響きの言葉を選びやがって。 『まずスキャンティーをですな』 『だから、いいっての!』  心のシャットアウトが不完全だったために、意思の隙間《すきま》から美佐のニヤついた声が漏れ出してくる。佐間太郎はヒビ割れにコンクリを流し込むようにして、その声が入ってこないようにした。これ以上放っておいたら、なにを言い出すかわからない。 「こちそーさまー」  美佐はそう言うと、ニヤッと笑って席を立った。洗面所に向かい、髪の毛のセットでも始めるのだろう。 「はあはあ……なんて姉だ……」  無意味に息を切らせながら食事を続ける佐間太郎を、テンコは不思議そうな顔で見ている。 『しかたない……じゃあメメに聞くしかないか。メメっ』  食卓に残っているのは、佐間太郎、テンコ、そして小学五年生の女神候補のメメである。  彼女は小学生の癖《くせ》に、妙にクールなところがある。きっと佐間太郎の悩みにも的確にアドバイスしてくれるだろう。 『メメ。あのさ、テンコの様子、おかしくない?』  メメは彼が送った心の声を、まったく無視するかのように食事を続けた。もしかして、送りそびれたのではないかと思うほどの無反応っぷりだ。しかし、横目でチラッとテンコのことを見たので、意思は伝わっているのだろう。  もぐもぐもぐとゆっくりとゴハンを噛《か》みながら(ママさんに 「ゴハンと牛乳はよく噛んで食べなさい。肉は丸飲みでOK!」という教育を受けている)、しばらくなにかを考えていたかと思うと、不意に佐間太郎《さまたろう》に向かってテレパシーを飛ばした。 『抱きなさい』 「ブエハッ!」  今度は耳からも米を撒《ま》き散らしてしまう佐間太郎。よほどメメの返事に驚いたのだろう。 「もう! 今拭《ふ》いたばっかりでしょ! なにしてんの!」  テンコはプンスカと怒りながらも、食卓の上をぞうきんでガシガシと拭いた。 『メメ1いつそんなの覚えた1』 『さつき』 『さっき? なるほど……』  そうか、そういうことか。きっと美佐《みさ》がメメに心の声を送って 「佐間太郎に質問されたら、抱きなさいって言っておくのよ」などと入れ知恵でもしたに違いない。 『もういい、なんでもない』 『……うん』  佐間太郎がうなだれてテーブルに突っ伏すと、メメは 「ごちそうさま」と言って席を立って行った。やれやれ、これじゃあ他《ほか》に誰《だれ》にも聞く相手がいないじゃないか。 「ん? 他にいない?」  気がついて見れば、食卓にテンコと二人きりになっていた。 「なに、どうしたの? なんかついてる?」  彼女は佐間太郎がジッと自分を見ていたことに気付くと、ポリポリと指で顔をかく。  さっきまでの妙な様子はすっかり消えていて、いつものテンコに戻っていた。  やっぱり気のせいだったのだろうか……。いや、そうではない。さっきの様子は明らか,におかしかった。  …佐《》間太郎は美佐の言った言葉をウムムと思い返す。 「自分がハッキリしないから、彼女は悩んでいる。・確かに、佐間太郎の態度には煮え切らないところがある。しかし、彼だって悩んでいるのだ。テンコは子供の頃《ころ》から一緒にいた仲だ。今さら恋愛だなんだという気持ちにもなれTない。たまに他の誰にも感じることのない感情を持つこともあるが、それが恋愛感情なの.かわからないのだ。  〃ずっと一緒にいるからこその、家族愛にも似たようなものなんじゃないだろうか。そもそも、テンコは天使で佐間太郎《さまたろう》は神様なわけだし、そんな二人の間には恋愛は成立しないはずだ。いや、わかんない。もしかしたら、するのかもしれない。なにせ、諸かを意識するなんて滅多にないのだから、この関係が正しいかどうかもわからない。 「……うむ」  佐間太郎はマジマジとテンコの顔を見る。傭《うつむ》くと前髪がハラリと彼女の頬《ほお》にかかった。  大きな目が、朝食の目玉焼きを見ている。満月のようなタマゴにハシを入れると、中からプニュリンと黄身が漏れ出してきた。それをヒョイと口の中に放り込み、モックンモクと食べている。  ……かわいい。わりと、かわいい。  佐間太郎は認めないわけにはいかなかった。女神であるママさんや、女神候補の美佐《みさ》、メメとは違う種類の美しさがそこには存在している。キュ、キュートっての? そういう感じなのである。 「ごちそうさまっ」  テンコはそう言って両手を合わせて食器を流し台へと運ぶ。  ああ、もしかして自分は彼女のことが結構好きなんじゃないだろうか。これはやっぱり、恋とか愛なのではないだろうか。  佐間太郎はコップに注がれた牛乳をゴキュゴキュ飲みながら、そんなことを考えた。  そして、思い切ってテンコに告げる。 「なあテンコ。あのさ、俺《おれ》とお前って、なんだろうな?」 「えっ?」  不意に問われた彼女は、慌《あわ》てて食器を落としそうになってしまった。言葉尻《じり》だけを取ると他愛も無い質問だが、昨日の夜のことや日頃《ひごろ》の感情を加えるとあら不思議。それは、二人の間でフワフワと揺れている、決して触れてはいけない厄介《やつかい》な問題になってしまう。 「あたしと……佐間太郎?」  彼女はひとまず食器を流し台に置き、濡《ぬ》れてもいない手をエプロンで拭《ふ》きながら席に座った。  . 「お前と、俺……」  うな《層,唱辱ーメ巳一─齢層C》カ…侑き気味に佐間太郎が答えを促す。  一《ロ》テンコは爪《つめ》を噛《か》みながら、ウムムと考える。  もしかして今日、この瞬間、なにかが変わるかも知れない。そんな期待を込めたつもりだが、なんとも愛想《あいそ》のない一言になってしまった。 「幼馴染《おさななじ》みでしょ? よそから見たら、兄妹」 「だよな。うん、わかった、以上」 「うん、以上」  こうしてまた二人の関係は保留になってしまう。佐間太郎《さまたろう》は 「やっぱりな、そうだよな、俺《おれ》はあいつに恋愛感情なんて持っちゃいけないんだしな、そもそも持ってねえしな、うんうん、家族愛だ、家族愛」と自分に言い聞かせ、テンコはテンコで 「ふむふむ、そうよね、あたしは佐間太郎を見守るのが仕事なんだから、余計な感情を持ったりしたらいけないのよね、うっふんあっはん」と吐息混じりに納得するのだった。  二人の間は、三歩進んで三歩下がるを繰り返している。その場所から進みもしなければ、戻りもしない。なにかハプニングあって四歩進んだとしても、慌《あわ》てて四歩きっかり戻ったりしてしまうのだった。  もしかして、進むことを恐れているのかも知れない。  なんで? どうして? だって、もし先に進んだとしたら、風景が変わってしまうかも知れないから。今までと違う景色になってしまって、もう戻れなくなったら困ってしまう。  だから二人は、ずっとその場で足踏みを繰り返しているのだった。  進一《しんいち》の 「なんと昨日は愛《あい》ちゃんと一緒にレンタルビデオ屋さんに行っちゃいましたi1」  というニュースを無視しながら、佐間太郎とテンコはいつもの距離感で学校へと向かう。 「でもバタリアン借りたら、彼女ってば怒っちゃいましたー!」  嬉《うれ》しそうに報告する進一。きっとバタリアンに罪はない。あるとしたら、きみのムード作り能力のなさに罪があるのだ。  途中で愛も加わり、四人で登校する。そして進一はまたしても運動部の女の子に目を奪われ、愛に絶交をされてしまう。  そんな、いつもと同じ朝に事件は起こった。  教室に着いて教師がやってきた途端、今までと同じだった景色が変わり始めた。 「え〜、今日はみんなに転入生を紹介します。きっとビックリしちゃうそ」  教師はそう言って、ニッコリと笑った。  生徒たちは 「おいおい美少女?」 「やいやいイケメン?」と色めき立つが、佐間太郎は興味を示さない。  一 「佐間太郎、また素敵な女の子かもよ? 久美子《くみこ》さんみたいなっ」  川テンコは皮肉を込めた口調で言う。彼はそれに気付いているのかいないのか、気のない〜返《r》事をした。ちなみに、少し離れた場所では進一がフンガフンガと興奮している。  ・いつもなら事前に転入生情報をリークしている彼だが、今回はできなかったらしい。果’たしてやってくるのは美少女なのか、それともあんまり美じゃない女の子なのか、まあ男甲だったらどうでもいいや、そんな顔で転入生が入ってくるのを待ち構えている。  きっと愛が見たら、彼の頭にカンペンを投げつけているところだろう。しかし、彼女は〃隣のクラスで授業中である。ああ、愛よ、こんな進一ですまない。 「なんと転入生は、この女の子だ! どうぞっ!」  まるでテレビショウの司会者のように教師が手を挙げると、一人の少女がドアを開けて入ってきた。テンコは彼女を見て、声にならない声を上げる。 「あ、どうも」  少女は遠慮がちに頭をペコッと下げながら、教壇の前までやってくると、教室を見渡して言った。 「小森《こもり》です。戻って来ちゃいました」  彼女を見た途端、テンコの顔色が変わった。もちろん、佐間太郎《さまたろう》もだ。  進一《しんいち》もイスからハデに転げ落ち、その驚きをクラス中に見せつけた。 「あ、神山《かみやま》くん」  彼女は窓際の席に座っている佐間太郎を見つけると、小さく手を振った。 「ただいまっ」  そして、ニッコリと笑う。  もちろん彼女こそが、神山佐間太郎の初恋の相手である、小森久美子《くみこ》だった。  第二章九月の花粉症と桃色貯金休み時間、久美子はクラスメイトに質問攻めにあっていた。それもそうだ、二ヶ月前に転校していった生徒が、こうしてまた戻ってきたのだから疑問に思うのも無理はない。  しかも、彼女は人間の女性に対して興味を抱かなかった佐間太郎が、唯一恋をした相手である。その美貌《ぴぼう》に引き寄せられるように、女子に混じって男子も 「なになに? どしたの?」と問いかけている。もちろんその中には進一の姿もあり、遊びにきた愛《あい》にその姿を見られて 「絶交」されてしまうことになるのだが。  …放《曜》課後になると、久美子はクラスメイトたちが自分の席に集まってくる前に、佐間太郎}の元《り》へとやってきた。  … 「お久しぶりです、神山くんに、テンコさんっ」  }久《一》美子はそう言って笑った。テンコは 「なにがお久しぶりじゃい」と敵意を露《あらわ》にしたか用つたが、そこは天使である。大人の態度で対応するのであった。 「ふんっ」しよせん対応できなかった。所詮、多感な年頃である。 「ごめん、コイツ、今日機嫌悪いんだ」  佐間太郎《さまたろう》はそう言ってフォローをした。久美子《くみこ》は困ったように笑うと、彼に耳打ちをする。 「あの、屋上、一緒に行ってくれませんか?」 「え?」 「お・く・じょー」  彼女はそう言うと、返事も聞かずに佐間太郎の手を取って、学校の屋上へと向かった。  テンコは呆気《あつけ》に取られながらも 「あたしに足りないのは、あの行動力なのかしら……」とため息をつくのだった。  放課後の屋上は人影もまばらだった。二人はフェンスに背をもたれるようにして座る。 「驚いたでしょう?」 「う、うん……ビックリした」  久美子は肩をすくませて、イタズラをした子供みたいに笑った。  彼女と最後に会ったのは夏休みの前であり、再会まではほんの数ヶ月しかない。それでも、懐かしく思えるのは、佐間太郎が久美子に対して特別な感情を持っていたからだろう。 「神山《かみやま》くんに会うために戻ってきたんだから」 「本当にP」  ちなみに 「本当にP」と発音できていない。彼女の発言に慌《あわ》てた彼は 「モンローにP」  ぐらいのニュアンスで言った。誰《だれ》だ、モンロー。 「あはは、嘘《うそ》。嘘です」  嘘かよ! そう素早く突っ込みたかったが、 「う、うん、むにゃむにゃ」と口ごもる。初恋の人というのは、なにか神聖な感じさえするものであり、軽がるしく頭を引《ひ》っ叩《ばた》けるようなものではないのだ。もちろん、彼はテンコと違って人の頭をパカポコと叩くようなタイプではないが。 「でも懐かしいね。こうして屋上でお話ししたの、ほんの前なのに」  そう言って久美子は大きく伸びをした。彼女はまだ菊本《きくもと》高校の制服を用意していないので、前の学校のセーラi服を着ている。丈の短い制服は、背伸びをするだけでヘソの部分川《均》がチラチラと見えてしまう。ディスイズチラリズム。  …ひんばん} 「だけど、どうして戻ってきたの? 仕事の都合って言ってたけど、そんなに頻繁にごっ…ちとあっち、行き来するもんなの?」 「佐《一》間太郎は不思議に思ってそう聞く。確か彼女は、親の都合で大阪へ引っ越したはずで川ある。それが、こうしてまた東京へと戻ってきた。どんな仕事だと言うのだろうか。 「「うーん。内緒かな」  彼女は笑顔を作った。少し戸惑ったような笑顔だった。佐間太郎は、きっとなにか事情…があるのだろうとそれ以上は追及しないことにする。  脳空気は澄み、どこまでも高く空が続いている。モコモコとした雲がカラメルを焦がしたような色で夕日に染まり、この季節独特の物悲しさを紡ぎ出す。  そんなオレンジ色を頬《ほお》に受け、久美子《くみこ》は空を見上げた。 「だけど神山《かみやま》くんに会いたかったのは本当なんだからね」 「え……なんて?」  バッチリ聞こえた。しかし、佐間太郎《さまたろう》は確認するためにもう一度聞き返す。いや、むしろもう一度そのセリフを言ってみ、言ってみ、という催促でもある。 「ううん、なんでもない。秘密ですっ」  言ってくれなかった。しまった、さっきの会話を続ければ、なにか進展があったかもしれないというのに。うっかり話の腰を折ってしまった。佐間太郎は悔やんでも悔やみきれんとばかりに心の中で号泣する。 「テンコさんとは仲良くいってるんですか?」  久美子は立ち上がる。屋上に舞い降りる風により、スカートの裾《すそ》がウィンクするみたいになびいた。 「あいつは、……ただの幼馴染《おさななじ》みだから」  それは嘘《うそ》ではない。テンコは、幼馴染みであり一緒に育った兄妹みたいなものだ。しかし、 「ただの」なのだろうか。  それに、今朝、彼女自身にも確認したのだ。二人の関係は、幼馴染みであると。 「そうなんだ。そっか。じゃあなにもないの?」 「う、うん……なんもない」  佐間太郎は手探りで言葉を見つけるように、ゆっくりと答えた。嘘を言っているつもりはないのに、どこか心が痛んだ。 「よかった。付き合ってたらどうしようかと思いましたよ」  久美子はそう言って歩き出す。彼は置いていかれないように、その後に続いた。  いくら恋愛に鈍感な佐間太郎でも、なんとなく彼女の言いたいことはわかる。 「ね、凡神山くん」 「なに?」  屋上から校舎への金属製のドアに手をかけたのと同時に、久美子は言った。それはとても小さな声で、秋風に吹かれて音色《ねいう》を変えてしまいそうだった。 「付き合ってくれる?」  彼女の言葉を聞いた瞬間、佐間太郎の中の思考が止まる。ピタッと。それはまあ、瞬間接着剤のCMみたいに、きれーに固まった。 「どこに?」  これは、彼にとって精一杯の返答である。もしかして、これは自分の勘違いかもしれない。それなのに一人でドキドキしたらバカみたいだ、そんな考えもあった。  しかし久美子《くみこ》は笑いながら訂正すると、彼の手を握る。 「そうじゃなくてさ」 「う、うん」 「わたしと付き合って」  佐間太郎《さまたろう》は、自分の顔が赤く火照《ほて》るのがわかった。それは夕日のせいではない。 「う……うん」  他《ほか》に答えようがあるだろうか。つい最近まで好きだった人に、告白をされてしまったのだ。そりゃ、うんと返事をするのが普通だろう。  だけど、そう答えた瞬間、頭の中にテンコの笑顔が浮かんだ。なんでテンコの顔が出てくるんだ、どうしてあいつなんだ、彼は思ったが、グググイッとそのイメージを吹き飛ばした。  あるいは、佐間太郎はテンコとの関係をハッキリとさせるために久美子と付き合う決心をしたのかもしれない。  俺《おれ》はあいつとなんでもないんだ。ただの幼馴染《おさななじ》みなんだ。  佐間太郎は自分に言い聞かせるように、何度も心の中で繰り返す。  二人がドアの向こうへ消えていぐと、屋上の隅からピョコンと三つの顔が姿を現した。 「聞いちゃった……。どうしよう、すげえこと聞いちゃったよ……」  一人は進一《しんいち》である。二人の動向が気になり、コッソリと後をつけてきたのだ。 「本当……。神山《かみやま》くん、テンコさんになんて言うつもりなんだろう……」  その横《》にいるのは、愛《あい》である。進一に会おうとA組に来た途端、ダッシュで屋上へ向かう彼を見つけて同じようについてきたのである。 「まったく……。困ったものね」  最後に眩《つぶや》いたのは美佐《みさ》である。  彼女もまた、この菊本《きくもと》高校の生徒であるのだ。ちなみに美佐は学校では 「あのおしとやかな神山さん」で通っているほどのクールビューティーキャラを演じている。家に帰るとすぐに洋服を脱ぎ散らかし、下着姿で 「暑い! メメ、牛乳1」と叫《さけ》んでいる彼女からは想像もつかない、清楚《せいそ》で可憐《かれん》な美少女キャラを作りこんでいるのだった。 「進一くん、確かにあの二人、付き合うって言ってたわよね?」 「は、はい。言ってましたね。確かに」  美佐に言われ、進一は緊張した様子で答える。それは彼女が上級生の三年生であるという理由からだけではなく、背筋に寒気《さむけ》を覚えるほどの美人だからだ。  愛はそんな彼を見て、むむうと不満げに頬《ほお》を膨らませる。しかし、女の彼女から見ても、美佐の美貌《びほう》にはウットリとしてしまう。二人は知らないことだが、なにせ美佐は女神様候補なのだ。人間の女の子と比べて見劣りするわけがない。 「そっか。うーん。あいつ、テンコのことどうするつもりなのかしら……」  シャーベットトーンに塗られたマニキュアが光る指を、美佐は唇に押し当てた。グロスがほんのりと塗られた唇は、魅惑たっぷりに輝く。  それに見とれた進一は、愛に思い切り足を踏まれた。 「ぎにゃー1」 「もう、進一くんてば知らない。本当に絶交だからね!」  何回絶交すれば縁が切れるのだろう。いっそのこと、鎖国でもしたらいかがですか。  …二人が教室に戻ると、テンコは待ちくたびれた様子でイスに座っていた。 「 「もう話《》しは済んだ? それじゃ帰るよ、佐間太郎《さまたろう》」 [そう言って彼女は立ち上がると、教科書の詰まったカバンを持った。いつもと同じはずなのに、今日は嫌に重く感じる。 「あ、その。いいんだ」  佐間太郎はテンコの目を見ずに、下を向いたままそう言った。 「なに? いいって、どういうこと?」 「今日から俺《おれ》、久美子《くみこ》さんと帰るから」  ボスン、と情けなくテンコの頭から煙が上がった。カップラーメン作ろうと思ってポットからお湯入れたら、途中ぐらいでお湯がなくなってスコンスコンと虚《むな》しい音が響いた、というぐらいの情けなさだ。  久美子《くみこ》はその様子を目を丸くして見ていたが、佐間太郎《さまたろう》は気付かない振りをする。後でなにか言われたら 「目の錯覚だよ」と答えればいいやと思っているのだ。 「なに? その、どういうこと? あたしは、もう、いらないってこと?」 「そういうわけじゃないけど……」  テンコの見ている風景が、音を立てて崩れていった。いつもと同じ教室が、冷たい氷の世界に見えた。佐間太郎の顔が、他人のように思えた。  しっかりと立っているはずの自分が、ゆっくりと床に飲み込まれていくような感覚さえある。視界が水の中の世界みたいにボヤける。  ああ、これは本当の感覚だ。あたし、泣いてるんだ。 「わかった。うん、そうだね、先に帰るね」  テンコは震えた声でそう答えると、今ではコンクリのように重くなったカバンを抱えて教室から出ようとする。その後姿に、佐間太郎が言った。 「俺《おれ》,久美子さんと付き合うことにしたから」  言葉がナイフのようにテンコの心に突き刺さった。どこまでも深く、心の一番柔らかい場所へ飲み込まれていく。 「そ、そうなんだ。よかったね。佐間太郎、久美子さんのこと好きだって言ってたもんね。うん、お似合いだよ、お似合いのカップルだよ。うん。えへへ、じゃあね」  彼女は目を真っ赤にして笑うと、そのまま廊下へと走りだした。  これでいいんだ。佐間太郎は思った。こうしておけば、もうテンコは悩んだり苦しんだりするこ之はない。それに、自分だってややこしい距離感の中で頭を抱えることもない。 「あの、神山《カみやま》くん、大丈夫ですか? テンコさん、泣いてたみたいだけど……」  久美子は佐間太郎の手を握って眩《つぶや》く。 「ううん、大丈夫。あいつ、花粉症なんだ」  一《凹》 「花粉症って、今九月ですよ?」  } 「” 「九… 「そ円《ヒ》 「最川佐� 「ね. 「大Wそ》月の花粉症」  … 「そんなのあるんですか?」 「 「円《》 「最川佐� 「ね. 「大Wそ》近はなんでもあるみたい」  佐間太郎はそう言って、自分の机の横に引っ掛けてあるカバンを手に取る。  皿 「ね、兀、本当に大丈夫なんですよね?」 「大丈夫だってば。久美子さんが心配することないって」  その時、廊下の方から叫《さけ》び声がこだました。 「なんでよおおおおおおおおお! 佐間太郎《さまたろう》のぶっああっかああかあああううう!」  それに機関車の汽笛《きてき》のような音がポオオオオオオと続く。久美子《くみこ》は、ポカンと口を開けて佐間太郎に問いかける。 「今、汽笛が聞こえたような気がするんですけど……」 「九月になるとね、通るらしいよ。廊下に機関車が」  通らない。どんな廊下だ。 「ぷっ。そ、そうなんですか」  久美子はおかしそうに笑う。きっと佐間太郎が冗談を言っていると思ったのだろう。いや、確かに冗談ではあるのだけれど、とても彼は彼女に応えて笑えるような心情ではなかった。 「バカバカバカバカ佐間太郎のバカバカバカアホアホアホー!」  テンコはそう叫《さけ》びながら、神山《かみやま》家の玄関を体当たりで開けた。  テレビを見ながらヨーガのポーズを取っていたママさんは、驚いてひっくり返る。 「なに、どうしたのテンコちゃん? 地震? 雷? 火事? 親指?」  彼女の意味不明な発言を聞いて、テンコは立ち止まった。 「うう……ママさん……」 「なに、どうしたの? あたいにケンカでも売ろうっての?」  あまりに真面目《まじめ》なテンコの眼差《まなざ》しに、ママさんはシャドーボクシングで対抗する。しかし、今のテンコにそんな冗談は通用しない。彼女はそのままママさんの元まで駆け寄ると、Zから数えた方が早いと近所で噂《うわさ》の胸に飛び込んだ。 「わーん! ママさん、ママさん、ママさーん!」 「おわああああ! なによP”ママさん、戸棚の大福なんて食べてないからね! あれ、テンコちゃんのだったのP」  戸棚の大福て、昭和初期のおやつである。ともかく、ママさんは自分がコッソリと大福当を食べたことで彼女が泣いているのだと思い、なんとか慰めようとする。 「ほらほら、泣かないのテンコちゃん。いーい、心が乱れた時はね、ヨーガがいいのよ、”ヨーガが。ほらこれ、荒《」》ぶる鷹《たカ》のポーズね。両手を挙げて、頭を低くね。って、聞いて…る?.聞いてないわよね。それに荒ぶっちゃダメよね? これママさんのオリジナルのポ円《」》ーズなんだけどね」  テンコがここまで素直に感情を露《あらわ》にしたのは、ママさんの前では初めてである。まさか一自分にこんな昼ドラのワンシーンのような状態が起こるとは思わず、ママさんは即魔から.なにかセリフを用意しておけばよかったと後悔する。 「あのね、ママさん、あのね……ううう、うはあああ」  テンコは鼻水をベロンベロン流しながら泣きじゃくる。どこまでも泣き方の汚い女の子である。そもそも、美しく涙する女性なんて信用できたものではないが。 「わかった。じゃあママさん認める。確かに食べました、お大福。でもね、食べたくて食べたわけじゃないのよ? 大福さんの方から、ママさんのお口に突っ込んできたんだからね。こういうのって事故じゃない? あらゆる意味で事故じゃない? だから、泣き止《や》んで?」  どこがどう 「だから」なのかわからないが、ひとまずテンコは涙をグッとこらえようとする。唇を噛《か》み、鼻水をすすり、耳を真っ赤にしながらもムムムと悲しみに耐える。 「ううう……うう…・:」 「そうそう。いーいテンコちゃん。あなたは天使なのよ? どんな時でも冷静にしてなくちゃダメ。だって、あなたがそんなに慌《あわ》ててたら、佐間太郎《さまたろう》のことを見守ることだってできないじゃない? ほら、ママさんに笑顔を見せてごらんなさい。天使の笑顔を……」  完壁《かんべき》だ。今の、ちょ1母親らしかった。ママさんは心の中でガッツポーズをする。 「でえええええええ! ざまだろー! みばぼるの、いらないっでえええ1」  しかし、テンコは彼女の言葉を聞いてさらに泣き出した。大失敗である。 「わあああ! ごめんなさいって! ママさんハなにか悪いこと言った? 言ったら謝るから! なまはげに怒られるから! だから、泣き止んで! そうしないと、テンコちゃんまで、なまはげになまはげられちゃう!」  なまはげられるとは、どういう状態のことかわからないが、ともかくママさんは 「悪い子はいねが、泣く子はいねが」の両方に当てはまることに困っているらしい。 「だって、だって、佐間太郎が、久美子《くみこ》さんと付き合うって言うんだもーん!」 「なんですってえええええええええええ! チョロ美《み》と付き合うρ」  あきらかにテンコは 「久美子」と言ったが、なぜかママさんは別の名前で彼女のことをそう呼んだ。ようするに、ママさんにとっては、佐間太郎に近づく女は 「久美子」だろうと 「チョロ美」だろうと関係ないらしい。 「近づく」という行為自体が許せないのだ。  四 「だってあのアマ、大阪に引っ越したんじゃなかったの! それなのに、なんで付き合う…ことになったのよ! 遠距離19“いわゆる遠距離? 最近はIP電話あるから、電話代とか気にしなくていいよねー、うふふーみたいなやつp気にしなさいよ! 電話代、気に…しなさいよお!」 「また戻《一》ってきたの。久美子さん、こっちに引っ越してきたの。それで、その、佐間太郎…が、久美子さんと付き合うことになったって言って……あたしにもなんでそうなったのか 「・…:わあああん!」 「きいいいいい! ママさんの大事な佐間太郎ちゃんをたぶらかそうなんて、絶対に許せΨないんだから! わああああん!」  二人はキッチンで抱きしめ合いながら、ヒンヒンと号泣した。床に涙が溜《た》まってしまうのではないかというほどの泣きっぷりである。 「ただいま……」  その様子を、帰ってきたばかりの美佐《みさ》が発見する。 「なんじゃこりゃ……。ちょっと、なにしてんの? 泣き止《や》みなさいってば」  学校にいた時の美佐とは違って、自宅モードの彼女はそんなことを言いながらも靴下をそこらに脱ぎ散らかしている。 「だって美佐ちゃん、聞いてよ1テンコちゃんが言うには、うちの佐間太郎《さまたろう》ちゃんがチヨロ美《み》にたぶらかされて……わひいいいいん!」 「ったく……。二人とも落ち着いてよね。佐間太郎が決めたことなんでしょ?」  と言いながらも、既《すで》に制服を景気よくスポコーンと脱いで、タンクトップとショーツだけの姿になっている。 「でも、美佐さん……。あたし……あたし……」 「泣かないの。テンコ、あんた天使なんだから泣くの禁止」  下着姿の美佐は、テンコに近寄るとギュッと抱きしめた。その輪の中に入ろうと、ママさんが必死で美佐の背中に寄り添ってくる。 「ママさんのことも抱きしめて」のポーズである。しかし、彼女はそれを無視して、テンコだけを抱きしめながらこう言った。 「あんたはさ、結局どうしたいわけ?」 「ぐずぐず……どうしたいって?」 「だから! どうしたいの!」  まぶたの中で宝石が光るように美佐の瞳《ひとみ》が動く。きれいな二重《ふたえ》の奥で、意志の強そうな輝きがテンコをしっかりと捉《とら》える。 「どうって? どういうことですか?」 「久美子《くみこ》さんと佐間太郎が付き合いました。で、あんたはどうなの?」 「……」 「ママさんはとってもダメですう〜!」  二人の背後で、ママさんが冷蔵庫に抱きつきながら泣き叫《さけ》んでいる。冷蔵のドア、冷凍のドア、冷《》蔵のドア、と交互にガッコンガッコン拳《こぶし》を打ちつけながら。まるで冷蔵庫に別れ話を告げられたようにも見える。 「ママは黙っててよ。テンコ、あんたの気持ちを聞いてんの」  美佐は、感情のない顔でそう問いただす。ともすれば、怒っているようにさえ見える。 「あたしは……その……あたしは……」  テンコはモジモジと胸の前で指を知恵の輪みたいに動かしながら、しばらく考えた。 「あたし……。佐間太郎が幸せなら、それでいいと思う」 「あっそ。じゃあいいじゃない、それで。はい、終了」  美佐《みさ》はそう言うと、回れ右をしてキッチンから出ていこうとする。テンコは、あまりもアッサリとした彼女の態度に不満を漏らす。 「美佐さん、冷たいですよ。なんていうか、その、もうちょっと……」 「え? なんで?」  顔だけをこちらに向けて、美佐は面倒くさそうに答えた。 「だって、佐間太郎《さまたろう》が幸せならいいんでしょ? だったらあんたになにも言う権利はなし。だからもう話すことは、ナスィッ」  そして大股開《おおまたびら》きで歩きながら、二階にある自分の部屋へと消えてい,ってしまった。  いつの間にかメメがやってきて、彼女の脱いだ制服をせっせと拾っている。 「美佐ちゃんてば、なによあれもー1」  ママさんはそう叫《さけ》ぶとテンコを抱きしめて、号泣の続きを始めた。しかし、抱きしめられたテンコはもう泣かなかった。  そうだ、あたしは佐間太郎が幸せになればいいんだ。だから、とやかく言う資格なんてない。そう思うと、涙さえ出てこなかった。  胸に大きな穴が開いたみたいになって、呼吸をするのが辛《つら》くなる。 「だけど、これでいいんだ……」  テンコは誰《だれ》に言うでもなく、そう眩《つぶや》いた。 「よかないわよ! チョロ美《み》、いつか死なす!」  ママさんは、いつまでもワンワンと泣き続けるのだった。  その頃《ころ》佐間太郎は、久美子《くみこ》の家へと向かっていた。  神山《かみやま》家のある住宅地とは反対側、学校の裏手を進んだところに、その小さな木造アパートはあった。時代に取り残されたような古ぼけた二階建ての建物は、佐間太郎のイメージする彼女の住居とはかけ離れたものだった。  もっと豪華なマンションとか、立派な一戸建てとか、そういうのを想像していたのである。 「ごめんなさい、わざわざ送ってもらったりして」  久美子はそう言って、真っ黒い髪の毛をかきあげる。耳に絡《から》みつく細い髪が、彼女の指先によってハープを弾くように持ち上げられた。 「ううん。まあ、この辺りはそんなに治安悪くないけど、その、もしものことがあるとあれだし、だから、せっかくだし、なんていうか、ね」  しどろもどろになりながらも、佐間太郎は彼氏らしいところを見せようと胸を張った。  そうだ、今日から神山佐間太郎は小森久美子の恋人なのである。かなり色々な順序をかっ飛ばしてしまったような気もするが、二人がそう認識さえしていればいいのだ。 「じゃあ俺《おれ》、帰るから」  佐間太郎《さまたろう》はそう言って、今来た道を引き返そうとした。その時、久美子《くみこ》の口から信じられない言葉が出た。 「ちょっとだけ、上がっていきますかつ・」  もし彼がテンコだったら、頭からポッポーと煙でも上げているところだ。 「えー7…だ、だって、その、家族の人とか……」 「お母さんがいるだけだから。その、気とか使わなくてもいいし」  そう言って彼女は笑った。ゆっくりと手が差し伸べられ、戸惑っている佐間太郎の頬《ほお》に触れる。 「もうちょっとだけ、一緒にいさせてください」  ふ。やられたよ。その一言にやられたよ。  彼女の手が触れている部分が、熱くなっていくのがわかった。  なるほど、これか、これが恋人というやつなのか。これが彼氏彼女という関係なのか。  悪くない。このような関係は非常に悪くないそ。 「じゃあ、ちょっとだけお邪魔させてもらう」 「本当に? よかったです。断られたらどうしようかと思いました」  アパートの外につけられた階段を、先に上がる久美子。彼女の後を、ああ、そんなに動いたらパンツとか見えますよ、などと思いながら佐間太郎は続いた。  ピッキング云《うんぬん》々じゃなくて、ちょっと強く蹴《ナ》れば開くんじゃないかしら、というぐらい薄いドアに鍵《かぎ》を差し込むと、久美子は部屋の中へと入っていく。  佐間太郎は様子を窺《うかが》うようにして、玄関に顔を覗《のぞ》き込ませた。  中は、三畳ほどの台所と、その奥に一部屋あるだけの慎《つつ》ましい作りである。オレンジ色のチューブが伸びたガス台の上には、焦げついたヤカンが乗っかっていた。  ビジネスホテルに置いてあるような小さな冷蔵庫が、低いモーター音を鳴らして二人を出迎える。 「お母さん、ただいま」  久美子は靴を脱ぐと、佐間太郎を促《うなが》して中へと入る。 「お邪魔します」  佐間太郎は他人の家の香りを感じながら、それぞれ人の家ってにおいが違うんだなーなどとどうでもいいことを考えていた。 「久美子……ゴホッゴホッ。お帰りなさい」  奥の部屋から出てきたのは、パジャマにカーディガンを聯織《f一隔つ》つた彼女の母親だった。  久美子と同じで整った顔立ちをしているが、体調が醐く悪いのか顔色が傲れない。  そして、本当に彼女の母親なのかと思うほど年老いていた。 「おばあちゃん」と紹介された方がしつくりとくる。痩《や》せ細った体と頼りない足元で、彼女は佐間太郎《さまたろう》に視線を送った。 「あらら。あなた、神山《かみやま》くん?」  久美子《くみこ》の母親が自分のことを知っているという事実に驚きながらも、彼は自己紹介をした。 「えPあ、はい。神山佐間太郎です」 「うふふ。いつも話は久美子から聞いてますよ」 「ちょ、ちょっとお母さん。余計なこと言わなくていいんだから。具合悪いんでしょ、寝ててよ」 「はいはい。神山くん、狭いところだけどゆっくりしていってね」  母親は壁に手をつきながら、奥の部屋へと戻っていった。  佐間太郎は、彼女の言った 「いつも話は聞いている」という言葉について考える。  いつもと言っても、彼女との再会は数ヶ月ぶりなのだ。それでもあの言い方を考えると、久美子は大阪に引っ越した後でも佐間太郎のことを母親に話していたのだろうか。 「俺《おれ》のこと、おばさんに話してたの?」 「え? あ、うん。気になる人がいるんです、って」  彼女は照れながら言うと、腰を屈《かが》めて冷蔵庫を開けた。中から紙パックの麦茶を出そうとしている。 「あ、いいよ。ほら、おばさん具合悪いみたいだし。あんまり長居しても悪いし」  長居と言っても、まだ台所にしか上がっていないのだけど。しかし、彼はどうにもこうにもいたたまれない気持ちになった。 「お母さんのことは気にしなくても大丈夫です。ずっとあんな感じだから。わたしが親孝行しないから、体調を崩しつぱなしで……」  彼女の母親は、なにかの病気なのだろうか。佐間太郎は聞きたかったけれど、触れてはいけない気がして黙ることにした。 「わたしが無理すれば、お母さんも元気になると思うんですけどね……」  無理というのは、無理してアルバイトをして働けば、母親を楽させることができるということなのだろうか。うーむ、細かい事情はわからないが、久美子は相当な苦労を強《し》いられることになるみたいだ。 「ずっと逃げてたんですけどね。お勉強に専念したいし。だけど、もうそんなことも言つてられないぐらいお母さんの具合が悪くなって。だから、決心したんです。お母さんのために働こうって。だから、先月ぐらいから、ちょっとずつ、ね」  ええ娘《こ》や! なんてええ娘なんや! みなさん、ここに素敵な女の子がおりはりますよ! 見てって! 見てってあげて!  佐間太郎《さまたろう》はそう叫《さけ》び出したかったのをググッとこらえ、久美子《くみこ》の肩にガスッと手を置いた。 「久美子さん。あの、俺《おれ》にできることがあったら、なんでも言ってね。手伝うから」 「……ありがとうございます」  彼女は困ったように笑う。久美子は本当に楽しそうに笑うことができないみたいだ。いつも、なにかに遠慮をしながら笑っているように見える。 「じゃあ俺、帰るから。また来るね」  佐間太郎が靴を履《は》くのを、彼女は名残《なごり》惜しそうに見ていた。 「神山《かみやま》くん」  ドアを閉めようとした時、久美子は麦茶のパックを抱きしめながら言う。 「本当に、また来てくださいね」 「うん、もちろん」  佐間太郎はゆっくりとドアを閉める。中から母親が咳《せき》をする音が聞こえてきた。  なにか彼女にしてあげられることはないだろうか。彼はそんなことを考えながら、薄暗い道を帰った。 「ただいまー」  佐間太郎は神山家の玄関のドアを開けた瞬間、言葉を失った。  目の前には、短距離走のクラウチングスタートのような前傾姿勢を取り、さらに両腕を上にビシッと伸ばしたポーズでママさんが待ち構えていたからである。 「な、なにそれ?」  彼は怯《おび》えながらも、そう聞く。するとママさんは、閉じていた目をゆっくりと開いて、ポツリと一言だけ言った。 「荒ぶる鷹《たか》のポーズ」 「そ、そうなんだ……。じゃ、俺、部屋に行くから」 「部屋とかじゃないでしょー! 佐間太郎ちゃん、今までどこに行ってたの! チョロ美《み》でしょ! チョロ美のところに行ってたんでしょ! この浮気者1!」  彼女はそう言うと、荒ぶる鷹のポーズのまま佐間太郎に突進してくる。後ろに十円玉を乗せたチョロQのように激しい動きだ。 「わああああ! そんな妙な姿勢でこっち来んな!」 「なんで、なんでなのよ! ママさんじゃダメなの? どうしてママさんと付き合ってくれないのPそんなに嫌いなのP答えて! ママさんの質問に答えて! そしてキスして!」  泣いてる。しかも本気で。  佐間太郎《さまたろう》は、なんとか彼女を落ち着かせると、真《ま》っ直《す》ぐに目を見て言った。 「いいかオフクロ。なんで俺《おれ》がオフクロと付き合えないか、説明するから」 「ぐすぐす。なに? ええのんよ、素直に言ってええのんよ。ママさん、悪いところがあったら直すから。それに、直せなくてもそれをカバーするほどの魅力的なナイスボディだからね。うんうん。ぐすぐす」 「俺がオフクロと付き合えない理由はね……」 「ごくん……」  ママさんはノドを鳴らして、彼の言葉に聞き入った。 「オフクロは、俺の母親だからね。普通、息子と母親は付き合えないからね」 「ガビーン! うかつでしたー!」  彼女はそう言うと、 「イヤン、先輩に告白したけど振られちゃいマシタ、あたしは中学三年生!」みたいな格好で部屋へと走り去っていった。それがどんな格好かは読者のみなさまの想像にお任せしたい(ヒント”物凄《ものすご》い内股《うちまた》で号泣)。  ひとまず危機は去ったと、二階の自室に向かう佐間太郎。しかし、ドアを開けると、べッドの上には下着姿の美佐《みさ》が、あられもない姿で眠っているのであった。 「おいおい! 姉ちゃん! なんで人のベッドで寝てんだよ! しかも、そんなあられもない姿で!」 「え? むにゃむにゃ……。う、寝ちゃったか。あーあ、あられもない姿になってる」  ちなみに、どれぐらいあられもないかというのは、やっぱり読者のみなさまの想像にお任せしたいと思う(ヒント2”上も下も、ほぼ丸見え)。 「さっさと出て行ってくれよ。ほらほら」  佐間太郎は机の上にカバンを放り投げると、美佐に向かって素っ気無い態度を取る。 「なにーなにー。冷たくない? せっかく美佐さんが佐間太郎くんの帰宅を待っててあげたっていうのにさー」  彼女はそう言いながら、大きなアクビをした。 「あんたさ、久美子《くみこ》はんと付き合うことにしたんでしょ?」  佐間太郎はピクッと反応するが、あえて無表情で答える。 「そうだよ。なんか悪い?」 「テンコはどうすんの? あの子は放っておいていいの?」 「別にテンコは関係ないから。あいつとは、ただの幼馴染《おさななじ》み。それか兄妹。俺が誰《だれ》と付き合おうが、知ったことじゃないだろ」 「はあ……。あんたたちって、似たもの同士よね、本当」  美佐はため息をついてベッドから立ち上がると、佐間太郎の方へ近寄ってくる。 「あ、美佐さんナウ貧血」  そう言うと、わざとらしく彼に倒れ掛かった。さすがに逃げるわけにもいかず、佐間太郎《さまたろう》は彼女を受け止める。抱き合うような姿勢になると、さすがに姉弟でもドキドキしてしまう。なにせ相手は下着姿なのだ。 「貧血なんて嘘《うそ》だろ、さっさと出てけよ」 「うん、嘘。でもいいじゃない。ほら、こんなに近い……」  耳元で美佐《みさ》の声が聞こえる。恋人同士が別れを惜しんでいるように見えなくもない。 「佐間太郎……。本当にいいの? テンコを放っておいていいの?」 「姉ちゃんには関係ないだろ……」  耳の中に、くすぐったい吐息が差し込まれる。それは綿菓子みたいにフワフワして甘かった。 「後悔しても知らないよ?」 「後悔なんて……しねえし……」  佐間太郎を抱きしめる美佐の力が、ギュッと強くなる。彼女の大きな胸が密着し、そこからトクントクンと心臓の音が響いてきた。 「本当に、いいの?」  美佐の唇は、彼の耳たぶに触れている。彼女が呼吸をする度に、唇が小さく動く。 「だからやめろっつーの!」  佐間太郎はハッとしたように目を開けると、美佐の体から離れた。 「ちっ。いつも失敗するな……」  彼女は悔しそうに舌打ちをする。佐間太郎が頭を傾けると、耳から白い綿のような物がポロポロとこぼれてきた。  女神のママさんや、その候補である美佐やメメには 「女神の吐息」という奇跡が使える。  これは相手の心を操作して、マインドコントロールをしたりする技なのだ。  今回の女神の吐息は、呼吸を物体化して相手の耳の中に送り込み、本音を聞きだそうという技だったようだ。しかし、ご覧のとおり佐間太郎は、 「プールに入った時に耳に水が入った小学生」のように、頭を傾けて片足立ちでピョンピョンとジャンプをしている。耳の中からその吐息を出しているのだ。 「ふ、なかなかやるわね」 「俺《おれ》相手にこういう姑息《こそく》な技を使うなよな……」 「まあいいや。あんたが後悔しないなら、あたしはなにも言わない。ただ、テンコをあんまり泣かせるんじゃないよ」  美佐はそう言うと、手を振りながらドアから出ていった。  一人になった部屋で、佐間太郎は倒れこむようにベッドに寝転がった。 「テンコ……か」  頭の中に、彼女が目玉焼きを食べていた姿が思い浮かぶ。いや、なにもそんなシーンじやなくてもいいんじゃないと思うが、なんてことない日常の連続が佐間太郎《さまたろう》とテンコを結んでいた生命線だったのだ。  久美子《くみニ》と付き合うことで、彼女と接することが少なくなれば、二人の関係は薄れていくだろう。本当にそれでいいのだろうか。それこそが自分の求めていたことだったはずなのに……。いや、本当だろうか? そんなことを求めていたのだったのか? 『お兄ちゃん……』  不意に頭の中に、舌たらずなメメの声が届いた。 『な、なんだよ。どうした、メメ』 『久美子のこと抱いたんか?』  小学生らしい屈託のない声で、彼女はそう言った。佐間太郎は全身から力が抜けていくのを感じる。 『:…・姉ちゃんか。姉ちゃんに吹き込まれたのか? 一『うん。そう言えって。じゃあね、おやすみなさい』  交信は途絶えた。急いで美佐《みき》に文句を言おうと思ったが、彼女は意識をシャットダウンしているのか、まったく声を送ることができなかった。  神山《かみやま》美佐、侮《あなど》れない女である。  その夜、テンコは泣いていた。あきらかに泣いていた。もう、誰《だれ》がなんと言っても泣いていた。ベッドの中に潜り込み、ぶえんぶえんと泣いていた。 「うは! ん! 好きじゃないけど! 別に佐間太郎のことなんて好きじゃないけどー!」  などと自分に言い聞かせながらも、鼻水をドッパンドッパン流しながら号泣すること川の如《ごと》し。 「さあ、覚悟はできたか?」  彼女の背後から声が聞こえる。それは、昨日の夜に聞こえた男の声だった。 「消えてよ! お願い、あたしの頭の中から消えて!」  テンコは声に向かって叫《さけ》んだ。しかし、謎《なぞ》の声は消え去ることなく部屋の中に響く。 「佐間太郎様はもう一人でやっていける。お前のことなど必要ないのだ。わかったら大人しく天国に帰ることだな。お前の役目は終わったのだ」 「そうなのかな。本当にそうなのかな。もう佐間太郎はあたしのことなんて必要ないのかな。今は久美子さんがいるし、彼女と仲良くやって、それで一人立ちして、もう天使の子守りなんていらないのかな」  ゆっくりとベッドから起き上がる。部屋の中を見渡しても、そこには誰もいない。いつもと変わらない部屋の中で、まるで頭の中に直接響くように声が聞こえてくる。 「そうだ。諦《あきら》めろ。潮時《しおどき》だ」  この声は、やっぱり自分の心の声なんじゃないだろうか。そうじゃなければ説明がつかない。 「あたしはやっぱり、自分でもいらないって思ってるのかな……」  頭を抱えてうなだれる。佐間太郎《さまたろう》の笑顔が浮かぶ。いつも見ていた無愛想な横顔が通り過ぎる。今まで一緒にいた記憶が、一斉に浮かんでは消えていく。 「あたし死ぬんか? 走馬灯《そうまとう》なんか? これ」  はあふう〜とため息をつき、テンコは天井を見上げた。  深呼吸を繰り返すと、次第に心が落ち着いてくる。うん、佐間太郎が幸せならそれでいいじゃないか。彼が誰《だれ》と付き合おうと関係ない。大事なのは、彼の未来だ。 「そっか、あたしはもういらないのね」  テンコはその時、決心した。佐間太郎が自分のことを必要としない以上、もうここにいる理由はない。家事をママさんに任せるのは不安だけれど、きつとメメが手伝ってくれるだろう。美佐《みさ》は面倒くさがって嫌がるだろうけど、洗濯だってゴハンだって一人分減るのだ。だったらなんとかなるだろう。 「わかった。わかりました。あたしは、天国に帰ります」  誰に言うでもなく、彼女はそう宣言した。 「そうか。では今から手続きをする。テンコ、ご苦労だったな」 「でも、ちょっと待って」  テンコは、自分自身と対話するように謎《なぞ》の声に話しかける。 「もうちょっとだけ。あと三日とかでいいの。佐間太郎のことを見ていたい。もう天使だからとかじゃなくてさ、監視役とかじゃなくて、一人の女の子としてあいつのことを見ていたい。それぐらいの時間を貰《もら》ってもいいでしょ? だって、今までずっとあいつのために働いてきたんだもん。三日ぐらいお休みを貰っても構わないでしょう?」  彼のために働いてきた、という表現は違うなと感じた。一緒にいることは楽しかったし、苦労なんてないように思えた。ただ、テンコの立場からすると、佐間太郎と一緒にいることは神様が定めた仕事なのである。それが、役目。 「きつと久美子《くみこ》さんと仲良くなるだろうけど。どんどんあたしから離れていくだろうけど。だけどね、あと少しだけ佐間太郎のことを見ていたい。ダメ? おねがい……」  あたしは、誰にお願いしているのだろう。彼女はそう思いながらも、ゆっくりと胸の前で手を組んだ。神様に祈る時の、あのポーズだ。 「あたしだって女の子なんだから。それぐらいのワガママを言ってもいいんじゃない?」  謎の声は考えているようだった。あるいは自分自身との葛藤《かつとう》なのかもしれない。  三日。たった三日間だけど、一緒にいたら、離れられなくなってしまう可能性だってある。いっそこのまま、なんの伝言さえ残さずに天国に帰ってしまったほうがいいのではないだろうか。  だけど。だけど、嫌だ。もう少しだけ、彼と生活がしたい。とても普通に、すごく穏《おだ》やかに。誰《だれ》かと付き合っていてもいい。それで幸せそうに笑ってもいい。そんな彼を眺めていたい。それだけでいいから。本当に、ただそれだけいいから。 「わかった。それでは、三日後にお前を天国に戻す手続きをする。それまでは自由に過ごすがよい。もうお前は佐間太郎《さまたろう》様の監視役ではない。ただの一人の少女として、残りの時間を送るのだ」 「ありがとう」  テンコは、こうしてオマケの時間を貰《もら》った。たった数日間だけれど、彼女にとってはかけがえのない日々になるだろう。 「取り消すことはできない。これはわたしとの契約だ。三日後、必ず天国に帰ってもらう。わかったな? 返事をするのだ」  本当に返事をしていいのだろうか。こんなふうに佐間太郎の前から消えてしまうことを決めてしまっていいのだろうか。 「……はい」  でも、もうあたしは彼にとって必要ないんだ。だから、いいんだ。 「契約は結ばれた。残りの時間をせいぜい有効に使うんだな」 「ありがとうございます」  カタン。  その時、机の方から音がした。プラスティックが、なにかにぶつかるような音だった。 「え?」  テンコは不審に思ってそっちを見る。しかし、いつもと変わらない。誰かがいるような気配も感じられなかった。 「気のせいかな……」  そう思いつつも、もう一度部屋の中を見渡した。小さな本棚とCDラック、タンス、そして机。机の上にはスタンドライト、それに鉛筆削り、ブックエンドに挟まれた教科書、そしてブタの貯金箱。それは昨日までとなんら変わりない、平凡な光景だ。 「うんうん……なにもおかしいところは……」  あった。おかしいところ、ありました。 「ブタの貯金箱? そんなの持ってたっけ?」  テンコは机に近づき、買った覚えのない貯金箱をマジマジと見つめる。 「あれ……。買ったかな。買ってないよね。もしかして、メメちゃんが置いていったのかな。それも変な話だしね……」  ジーッと顔を近づけ、貯金箱を見つめる。  いわゆるスタンダードなタイプの、ブタの貯金箱だ。プラスティック製で、背中にコインを入れる穴が開いている。 「ん?」  彼女は、ただひとつおかしいところに気付いた。そのブタの横腹の部分には、羽のようなマークが描かれていたのだ。一瞬見過ごしてしまうほど薄い色だが、確かに羽が刻み込まれていた。 「ブタに羽? なにこれ……」  ガシッと掴《つか》んで、中にお金が入っているかしらんとブンブカ振ってみる。  しかし、小銭は入っていないようだ。中からはなんの音もしない。 「うーん。まあいいか」  彼女は貯金箱を机の上に戻し、またしてもジーッと観察する。  すると、さっきとはあきらかに様子が違うことに気付いた。  足がプルプルと小刻みに震えているのである。中に電動のモーターが仕込んであるように、ほんの少しだけ動いているように見える。 「なにこれ……動く貯金箱? 振ると動くの?」  テンコはもう一度貯金箱を掴むと、さっきの二百倍のスピードでズビズバズビビーとブタを振り回した。散々シェイクした後、机の上に置いてみる。  プルプルプルプル……。  やっぱりだ。しかも、さっきよりも激しく動いている。なんなのだろうか。どんな意味があって貯金箱が動くのだろうか。 「パーティーグッズ?」  動くブタの貯金箱が必要なパーティーなんて、行きたくない。そんなことを思っていると、不意にブタから声がした。 「はあ〜、もうダメだあ〜」 「きゃああああああああああああああ!」  ブタは机の上にパタンと横になると、苦しそうな呼吸を繰り返し始めた。 「はあはあ……テンコ、お前な、振りすぎ」 「ブタがしゃべってるうううううううううう1」  彼女は驚いて部屋の隅までズザザザザと後退する。頭から湯気を出す女の子なのだから、貯金箱が喋《しやべ》ったぐらいで驚かないで欲しいと思う。だが、ビックリするものはするらしい。  布団《ふとん》を掴んでそれを頭からかぶり(彼女なりの防衛策らしい)、恐る恐るブタに近づく。 「なに、あんたなにPもしかして、さっきまであたしに話しかけてたのは、あんたなのー9“」 「たんま。本当、いま、気分悪いから……。おえ」  よく見れば、ブタは青い顔をしていた。ピンク色のボディに、頬《ほお》を赤く染めてたデザインが、今では真っ青になっているのだ。 「だ、大丈夫? お水、持ってくる?」 「ふふ。わたしをみくびるなよ」  真っ青な顔して倒れているブタの貯金箱に対して、みくびるもなにもないと思う。 「なに。なんで話せるの? なんかの呪《のろ》い? そうだ、みんなに知らせなくちゃっ」  テンコが部屋から出ようと振り返ると、背後からブワッサブワッサと音が聞えた。驚いて振り返ると、ブタの横腹に描かれた羽は、いつの間にか本物の羽になっている。  ブタの貯金箱は、確かに空中に浮かんでいた。 「飛んでる! 羽はえたブタの貯金箱が飛んでる!」 「ふふふ。テンコよ。わたしのことは秘密にしておかねばならぬ」 「な、なんでよ?」 「神山《かみやま》家のみなさんに心配はかけたくないからな」 「あの、言ってる意味がわからないんですけど、ブタのくせに」  ブタはムッとして言った。 「わたしはブタではない。スグルという名前があるのだ」  スグル。なぜスグル。 「それでブタは、なんで飛んでるの?」 「だからブタではない! スグルだ1」  スグルはテンコの目の高さで浮き続ける。フワフワと、風船が浮かんでいるような感じだ。 「なぜ飛べるのか。それは、わたしが天使だからである」 「天使Pブタなのにp」 「だからブタではない! 貯金箱でもない! 普段は天使の格好をしているのだが、人間界に来るに当たって、一番人の目につかない姿に変身しているだけだ!」  テンコはその言葉を聞いて、うんうんと頷《うなず》いた。どうやら理解してくれたようだ。スグルが満足していると、彼女はどこから取り出した財布から小銭を出した。 「はい、これ」  そして、プカプカと浮いているスグルの背中に、チャリンチャリンとコインを入れた。 「五十円デス」  スグルは反射的に答える。今までとは違う、とても事務的な声だった。 「わ、ブタさん、しゃべる貯金箱なんだね! かわいい!」 「うるさい! 小銭を入れられると、反射的に金額を言ってしまうのだ! くそう、貯金箱としての性《凸ζ」η》よ、なぜこんなにわたしを苦しめるのですか!」 「あはは! 面白い!」 「面白がるな! わたしは大天使であるぞ! 天国に行けば偉いのだぞ! それなのに小銭を背中から入れるだなんて!」 「はい、これ」  チャリンチャリン。 「二百円デス。合計、二百五十円デス」 「だはははははは1ブタが! 金勘定を!」 「うるさい! そもそもお前は!」  そう叫《さけ》ぶスグルの高度は、ゆっくりと落ちていった。テンコの目線で飛んでいたはずが、今では胸の高さまで下がった。 「ああ! 小銭が! 小銭が重い! もうこれ以上入れるなよ、小銭!」 「あっはっはっは! 落ちてる1必死で飛んでるのに落ちてる!」 「だから笑うな!」  そんなわけで、テンコは三日後には天国に帰ることになってしまった。スグルと名乗る大天使(でも見た目はブタの貯金箱)との契約により、それは絶対的なことらしい。  もう二度と佐間太郎《さまたろう》には会えなくなるかもしれない。彼は自分のことを必要としていない。そんな悲しみが、テンコの心の中で嵐《あらし》のように吹き荒れた。 「だっはっはっは! 落ちてる1顔、真っ赤なのに飛べてない! あはは!」 「だから笑うな! 笑うでない! フンガー1フンガ!」 「いっひっひっひ! 鼻息が! 鼻息が!」 「笑うなと言っておるだろうがー!」  ……。とてもそんなシリアスな状況には見えないかもしれない。しかし、これは本当の話なのである。 「はあう〜。限界だ」 「あ、ブタが落ちた! だっはっはっは! お腹痛い! お腹、痛い!」  ……本当なのである。  朝になり、テンコは目覚まし時計の音に起こされた。時計をパコンと叩《たた》き、ついつい二度寝をしてしまいそうになるのを我慢する。  まだ半分夢の中にいる頭で、昨日のことを考えた。  羽を生やした桃色のブタの貯金箱。なんだか全《すべ》てが夢の中の出来事のように思える。あと数日しかこの世界にいられないことも、佐間太郎《さまたろう》が久美子《くみこ》と付き合うことになったのも、全ては冗談なのではないか。 「でもきっと、本当なんだろうなあ……」  彼女は力のない声を漏らすと、ゆっくと目を開けた。 「おはよう」  目を開けた瞬間、顔の真ん前にスグルがいた。しかも、笑っている。 「うわあああああ! ブタが笑ってる! ブタが!」  目覚まし時計を叩くように、テンコはスグルの頭をパッキンバッキンと叩いた。 「はあああ1叩くな! 叩くんじゃない! わたしはこの笑顔しか表情がないのだ! 仕方ないだろ、貯金箱なんだから! 表情の変わる貯金箱のほうがおかしいだろ!」  言ってることは真っ当なのだが、じゃあ 「喋《しやべ》ったり」 「飛んだり」するのはおかしくない一とでも言うのだろうか。 「 「はあはあ……最悪の目覚めだわ……」 「人がせっかく起こしてやったのに、最悪とはなんだ! まったく1」  スグルはオデコの部分に血管を浮き上がらせながら、言った。表情に変化はないらしい 「が、そういう表現はできるらしい。そう言えば、昨日必死に飛んでいた時も顔に汗をかいていた。漫画的な表現手法に頼るブタなのだ。 「あっそ。ありがとありがと」 「む。全然感謝してないな」 「してるってば。うるさいブタ」 「だからスグルだと言っておるだろうが!」  テンコはベッドから起き上がると、Tシャツにロングスカートを履《は》いた。それにエプロンをつけて、家事の準備をする。 「じゃ、あたしはゴハン作らなくちゃいけないから。あんたは誰《だれ》かに見つかったら困るんでしょ?」 「ああ、そのとおりだ。もし貯金箱が飛んでいるとなったら、神山《かみやま》家のみなさんは怪しむだろう。そうなると、困るのだ」 「なんで困るのよ」 「きっと、みなさんはわたしが天使だということを見破る。天使がやってくるということは、お前を連れ戻しにきたとバレてしまうかもしれない。引き止められると困るのだ」  どうやら彼も色々と考えているらしい。 「わかったわよ。それならここで大人しくしてなさいよね」 「うむ。コーラを」 「持ってこないからね」 「うむ」  テンコはドアを開けて、廊下に出る。今日の朝食はなににしようかなーと考えていると、背後から妙な音が聞こえるのに気付いた。ブワサブワサと、羽ばたくような音だ。 「ブタ! あんたでしょ!」  振り返ると、予想どおりスグルが廊下に浮かんでいた。 「コーラ……」  どうやらコーラが飲みたくて、後をついてきたらしい。 「ブタのくせに炭酸飲みたがんないの。ちょっと生意気よ?」 「この重さにもなれたスグルは、ちゃんと飛べるようになったのでありました」 「聞いてないから」  確かにスグルは、昨日よりも高度を上げて飛んでいた。テンコの頭よりも、少し上ぐらいだ。 「まあいいわ。この時間ならまだ誰も起きてこないだろうからさ」  そう言ってテンコは階段を降りようとする。 「一番の早起きさんなのか?」 「まあね」 「なるほど。それで家事をしているのか。しんどくないか?」 「別に。慣れちゃったからなんてことない。それに、あたしは家族だけど家族じゃないからさ。お手伝いさんみたいなもんり・働かざるもの、食うべからずね」  階段を降りながらも、スグルはテンコに質問を続ける。 「家族じゃないのか? 一緒に住んでいるのにか?」 「だってあたしだけ天使だもん。みんなは神様とか女神様とかじゃない? 仲間はずれだもん」 「だが、一緒に住んでいるのなら家族同然だろう?」 「みんなはそう思ってくれてるみたいだけどさ。あたしはね。なんていうか、ちょっとだけ肩身が狭いかな」  そう言ってテンコは笑った。そんな生活も、あと数日間で終わりだ。 「ねえブタ。あたしが天国に帰ったら、家族っているのかな?」  スグルは少し考えた後に答える。 「いるだろうな。なぜだ?」 「あたし、天国の記憶がほとんどなくてさ。お父さんもお母さんもあんま覚えてないんだ。だから、急に戻っていって、仲良くなれるのか不安だね」  トントントンと木造の階段を降りながら、テンコは言う。 「いいか、テンコ。今の家族は神山《かみやま》家のみなさんなんだ。だから、天国に戻るまでは余計なことを考えるな」 「なんで? だって、あたしだけ天使だもん。家族じゃないよ」 「家族とはなんだ? 血が繋《つな》がっているだけが家族か? 違うな」 「じゃあ、なによ?」 「いつも見守ってくれている存在。それが家族だ」  ピタッと足音が止まる。彼女はスグルの方を振り返った。 「ブタのくせに、いいこと言うじゃん」 「ブタではない!」 「だけどさ、それも一方的な思い込みかもしれないし。難しいよね、そういうの……」  そこでテンコは言葉を止めた。いや、それ以上続けることができなかった。  なぜなら、階段の一番下、一階の廊下にはメメがパジャマ姿で立っていたのだ。 「メメちゃんPなんでここに!」 「……トイレ」  彼女は簡潔に答えた。その幼い視線の先には、フワフワと浮かんでいるスグルがいる。 「あ、あのね、メメちゃん、これはね、その……」  しどろもどろに詠って言い訳をしようとするテンコだが、メメはトトトトと階段を上ると、スグルのすぐ側までやってきた。 「はい」  そして、ポケットから小銭を取り出すと彼の中にチャリンと入れる。 「百円デス。合計三百五十円デス」  反射的に答えてしまうスグル。メメはそんなブタの貯金箱を見て 「うんうん」と満足そうに頷《うなず》くと、なにも言わずに部屋に戻っていった。 「……メメ様って、クールだな。飛んでいるわたしを見ても、疑問さえ持たなかったようだが……」  スグルは百円玉一枚が追加されたことにより、高度を少し下げながら言った。 「う、うん。っていうか、寝る時にポケットに小銭入れてるのかしら」  まったくもって謎《なぞ》の少女である。侮《あなど》りがたし、神山《かみやま》メメ。  台所に行くと、隣のリンビングでは既《すで》にママさんが 「朝のヨーガ講座〜ウェイクアップ水魚のポーズ! 〜」を見ながらフンフンと頷いていた。 「はああ! ママさん1なんでこんな早い時間から!」 「あら、オハヨ。なに言ってんの、テンコちゃんが今朝は遅かったんじゃないの?」 「えっP…そ、そんなこと……」  しかし、テレビ画面に浮き出た時計は、既に6時過ぎを示している。いつもなら5時頃《ころ》には起きているのだから、一時間の寝坊ということになる。 「な、なんでPだって、あたしの時計は……」  はたと気付いて、スグルの方を見る。彼女の後ろに浮かんでいたスグルは、額に汗を浮かべていた。 『いや、テンコがいつもお疲れ様らしいので、ちょっと時間をずらしておいた』 『なにすんの! 余計なことしないでよね1』  そう言いつつ、スグルが神山家の家族しか使えない心の声を使っていることに気付く。  どうやら、大天使である彼にも同様の能力があるようだ。ブタのくせに。 『まあいいわ。まだママさんはあんたのことに気付いてないから、見つかる前に部屋に帰りなさい』  テンコにとっては、それが唯一の救いであった。メメはスグルのことをなんとも思わなかったようだが、ママさんは仮にも女神である。彼女に見つかったら、さっき彼が言ったように 「テンコを連れ戻しにきた」ことを見破られるかもしれない。そうなったら、余計な心配をかけてしまう。 「あ、そうだテンコちゃん」 「はいっ19」  ママさんは熱心に見ていたテレビを消して、財布を片手に近寄ってきた。 「はい、これ、小銭ね」  チャリンチャリン。スグルの背中に小銭を入れるママさん。 「二百円デス。合計五百五十円デス」  反射的にそう報告する彼を見て、ママさんは感心している。 「うふふ、最近の貯金箱って飛ぶのね。人間の進歩ってすごいわ〜。それじゃママさん二度寝するから、ゴハンの準備よろしくね〜」  彼女はそう言ってルンルンと部屋に戻っていった。  ママさんの後姿を唖然《あぜん》と見守っていた二人だったが、しばらくしてテンコは叫《さけ》んだ。 「気付いてないじゃないの! ブタ! なにが見破られるよ、心配して損した!」 「う、うるさい! 女神様は、気付いているのにそうではない振りをしているに違いないのだ!」 「いいや違います。あれは100%天然です。絶対わかってない。はあ、ブタの言うこと、すんこい適当。やんなっちゃう」  そう言うと、テンコはシンクの前に立ち朝食を作り始めた。 「えーと、コーラはどこですかな」 「うっさい。黙れ。冷蔵庫に決まってるでしょ」 「ぐすん……」  面目を潰《つぶ》されたスグルは、いそいそと冷蔵庫を開けようとする。しかし、なにせ貯金箱なので体が動かない。必死になってドアに体当たりしていたが、どうしても開かない。 「あの、開けてください」 「あーもー! 今、ゴハン作ってるでしょー! 本当に邪魔!」 「貯金箱はドアを開けられないのだからしかたないではないか!」 「貯金箱は炭酸飲まないんだからね、普通!」  二人が言い争いをしている真っ最中、廊下の方から 「ヘクチンッ」という声が聞こえた。  ピタッと止まるテンコとスグル。まさか、メメやママさんだけではなく、さらに誰《だれ》かに見つかったというのだろうか。恐る恐る視線を向けると、そこには寒そうに体を縮ませる下着姿の美佐《みさ》がいた。寒いなら服を着ろ、誰もがそう思うだろう。しかし、彼女はもうタンクトップとショーツという姿でしか眠れない体になってしまっていたのだ!  理由は、色々着ると 「なんか、モゾモゾする」からだそうだ。うん。 『ちょっとブタ! 美佐さんにまで見つかっちゃったじゃないの!』 『不覚!』 『不覚! じゃなくて1あんたがボケボケ飛んでるからでしょ、もー!』  美佐はジーッと空飛ぶブタの貯金箱を不思議そうに見ていたが、テテテテと近づいてくると、ペチンとスグルの頭を叩《たた》いた。 「いたっ!」  あまりに突然の一撃に、彼は思わず声を出してしまう。 『わああああ! なにしてんの1』 『いや、その、不意の攻撃に声が!』  みさしやべ美佐は、空を飛び、さらに喋るブタの貯金箱を不思議そうに見ている。 「……じーっ」 「…………」  余りの凝視に、スグルは頬《ほお》を染める。大天使といえども、女神候補の彼女に見つめられるのは照れるのだろうか。 「えいっ」  ペチン。またしてもフワフワと浮かんでいるスグルを叩《たた》く美佐。 「あいたっ!」  そして、さっきと同じように声を出してしまうスグル。 「えいっ」↓ペチン↓ 「いたっ!」↓ 「えいっ」ペチン↓ 「いたっ!」のローテーションを十回ほど繰り返すと、美佐は突然満面の笑みを浮かべた。 「がっはっは! そーかそーか!」  なにを納得したのか、彼女は下着の中から小銭を取り出すと、スグルの中にチャリンチャリンと入れる。 「百五十円デス。合計七百円デス」 「がっはっはっはっは1えいっ」  そして最後に大笑いすると、もう一度スグルの頭を叩いて部屋へと戻っていった。  どうやら、彼女なりに大満足らしい。 「なに、美佐さん、なにに納得したの? そして、なんで下着から小銭が出てくるの?」 「わ、わからない……。まったく謎《なぞ》だ。美佐様もなかなかのお方だ」 「……ブタ、あんた誰《だれ》にも相手にされてないんじゃないの?」 「そ、そんなことはないそ?」  その時、二階からトントントンと足音が聞こえてきた。既《すで》に二人とも、慌《あわ》てる様子はない。もう見られてもええわい、ってなもんだ。 「おいテンコ、俺《おれ》、今日朝メシいらないから。久美子《くみこ》さんと朝マックを……」  佐間太郎《さまたろう》はテンコの横に浮かんでいる、ブタの貯金箱を見た瞬間に言葉を失う。 「おわああああああ1ブタが飛んでる!」  そして、悲鳴を上げた。二人は 「うんうん、これがあるべきリアクションだよね」と満足げに頷《うなず》いた。 「おいテンコ、なんでブタが飛んでるんだよ。まあそれはいいとして、はい小銭」  佐間太郎は不思議に思いながらも、とりあえず貯金箱があるなら小銭を入れよう精神で、財布からコインを取り出してスグルの中へと入れる。 「百円デス。合計八百円デス」 「どんな仕掛けなんだよ、これ……。なに、パーティーグッズ?」  だから、ブタの貯金箱が飛んでいるようなパーティーには行きたくない。 「さあ? あたしもわかんない。それより、ゴハンいらないって?」 「あ、そうそう。久美子《くみこ》さんと一緒に食べる約束したからさ。んじゃ俺《おれ》、もう行くから。メシの前におしゃべりするんだ」  そう言って佐間太郎《さまたろう》は出て行ってしまった。残されたテンコは、フワフワと浮かぶブタが急に憎らしくなる。 「なによ! なにが朝マックよ! なにがおしゃべりよ!」  バッツンバッツンと音を立てながら、スグルをぶっ叩《たた》くテンコ。その度《たび》に彼は 「はうー」 「うは!」 「ぴぎー!」と叫《さけ》ぶ。最後の、ブタっぽいね。 「なんだテンコ。お前はもう佐間太郎様のことを……」  スグルに言われて、テンコはハッとした。そうだ、あたしは三日後には天国に帰るのだ。  それまでの間は嫉妬《しつと》なんてやめよう。ただ、彼のことを見守ろう。 「だけど超ムカつくんですけど! ええいっスグル、行くわよ!」 「ええっP“行くってなんだー7」 「尾行よ、尾行!」  テンコは自《ら》分の部屋に戻って制服に着替えると、戸惑っているスグルを掴《つか》んで外へ飛び出した。 「うわああ、わたしが天使だということは、人間にバレたら一大事だぞ!」 「大丈夫、ブタの貯金箱抱きしめてるただの女の子にしか見えないから!」  彼女はそう叫ぶと、猛ダッシュをするのだった。  ブタの貯金箱を胸に抱きしめながら。  第三章真夜中の少女佐間太郎《さまたろう》は、世田谷区《せたがやく》の公園でベンチに座り、久美子《くみこ》とその 「おしゃべり」とやらをしていた。住宅地の真ん中にある小さな公園だが、早朝から多くの人が利用している。  犬の散歩をさせたり、マラソンの途中に寄って水を飲んだり、といった具合だ。  少し肌寒いのか、久美子は佐間太郎にそっと寄り添ってくる。もしかしたら、悩になにか意図があるのかもしれない。 「この公園、懐かしいですね」  久美子はそう言って佐間太郎の顔を覗《のぞ》き込む。近くで見ていると、瞬《まばた》きをする度に長いマツゲからパチパチと音が聞こえてきそうだ。 「覚えてるの? 前にここで会ったこと」 「うん。少しだけですけど。なんでかな、椒雌くんと一緒にいた時の記憶って、鰍嚇なところが多いんです。物覚え、悪くなっちゃったのかな」  彼女はそう言ってあははと笑った。佐間太郎も、つられて 「にひひ」と笑う。 「あ、ダックス」  公園の中を散歩している老人が連れていた犬を見て、久美子は反射的に駆け寄る。 「そう言えば、久美子さんも飼ってなかったっけ、犬」 「うん。飼ってる。っていうか、飼ってたというか。成長して、もうわたしの手に負えなくなっちゃって。小さい頃《ころ》はかわいかったんですけどね、大きくなったら」  老人の飼い犬の頭を撫《な》でながら、彼女はそう言って寂しそうな顔をする。  最近、子犬だけを可愛《かわい》がって、成犬になったら捨てる飼い主が多いらしい。そんな話を聞いたことがあった佐間太郎は、もしかして彼女もその中の一人なのだろうかと思った。  いや、そんなことはないだろう。久美子の性格からして、無責任なことをするようには思えない。 「今はその犬、どうしてるの?」  佐間太郎もベンチから立ち上がり、ダックスの頭を撫でた。 「うーん。お母さんになついてるかな。わたしのことは嫌いみたいで」  目を細め、愛《いと》しそうに犬を撫でている。こんな姿を見ていると、彼女になつかない犬なんているのだろうかと思ってしまう。 「じゃあね、バイバイ」  散歩に戻ったダックスに、久美子は名残《なごり》惜しそうに手を振った。 「かわいいね」  そう言って立ち上がると、パンパンと手を払った。ダックスから抜けた短い毛が、制服からパラパラと落ちる。 「うん、かわいいね」  そんな久美子《くみこ》さんがね。  ああ、そんなふうに言葉を続けることができたら、どんなに素敵なことなのでしょう。  でも無理です。今の佐間太郎《さまたろう》には無理でございます。彼は心の中で 「そんな久美子さんがね」と何度も繰り返しながら、公園から出ていく犬と老人を眺めていた。 「神山《かみやま》くん、マック行きません?」  久美子は不意に走りだすと、公園の外から大きく手を振る。 「おいかけっこしませんかー? おいついたら、ご褒美《ほうび》あげます。よい、ドンっ」  そう言って彼女は走りだした。佐間太郎が本気を出したら、すぐにでも追いつきそうなスピードだった。 「あはは。待ってよ」  そう言って彼は、久美子を追いかける。  冬の足音が聞こえてきそうな、そんな秋の朝だった。 「はんっ! 気に入んないんですけどっ!」  そんな二人を茂みの中から覗《のぞ》いていたのは、テンコとスグルである。  彼女はコッソリと佐間太郎と久美子のラブラブデートを見ていたが、次第に我慢できなくなったのか、スグルを抱え込むとガシガシ叩《たた》き始めた。 「はう! はう! はう!」  などと叫《さけ》ぶスグルだが、テンコは手で彼の口の部分を塞《ふさ》ぎながら殴打を繰り返している。  少し離れた場所にいる二人には、スグルの悲鳴は届かなかった。  あはは〜、あたしを抱きしめてこらーんなさーいー、おいついてごらんなさーいー、うっふふ〜、まてよおーこいつー、という感じで佐間太郎と久美子が公園から出ていくと、テンコはスグルを地面に勢いよく叩きつける。 「あもう! なんなの、あれ! 頭イってんじゃないの!」  顔面を強打したスグルは、ヨロヨロと頼りなく浮かぶ。 「あの、テンコさん。わたしね、一応ね、大天使って言ってね、割と偉い天使なんですよ? だからね、なるべくね、打撃系はなしでお願いしたいんですけど」  遠慮がちに抗議するスグルだったが、テンコはゆっくりと振り返ると、完全に座った目で言った。 「トンカツにして食べるわより・」 「ごめんなさい」  その謝罪は、即答だったそうな。  テンコはスグルを抱きしめると、そのまま駅前のマックへと向かった。  外から見ると、窓際の席に二人は座って楽しそうに談笑している。 「はっはあ〜ん。あれか? あれが噂《うわさ》の、おしゃべり再びですかい?」 「あの、テンコさん。目がね、怖いんですけど……」  結局彼女は、二人が食事を終えるまでジーッと観察していた。夏休みの朝顔だって、これだけ見つめられることはないだろう。  二人が席を立つと、慌《あわ》てて通学路まで走る。そして、学校の前の坂道まで来ると、かなりさり気ない偶然を装って遭遇するのだった。 「あら! 佐間太郎《さまたろう》に久美子《くみこ》さんじゃない1すっこい、偶然!」  待ち構えていたような登場に、佐間太郎は顔をしかめる。しかし、久美子はまったく気にせず頭をさげた。 「あ、おはようございます。さっきまで、神山《かみやま》くんとゴハン食べてたんですよ」  知ってる。いや、むしろ見てました。この目で、ハッキリと。あんまりにも瞬《ま催た》きしなかったもんで、目にゴミが入って大変でした。テンコはそう言いたいのを我慢して 「あらそーもーやーねー」とオバさんみたいな反応をする。 「あの、テンコさん。それより、そのブタ、なんですか?」  彼女はそう言うと、テンコの胸にしっかりと抱かれてるブタの貯金箱を指差した。 「う。えーと、これはですね、その、募金中なんです」 「募金運動ですか? テンコさんて、社会派ですね」  久美子《くみこ》は素直に彼女の言うことを信じ、財布から小銭を出すとスグルの中へ入れる。 「百円デス。合計九百円デス」  こんな時でも、反射的に彼は合計金額を言ってしまうのだった。 「わあすごい1喋《しやべ》るんですね」 「あ、うん、そうそう。喋るの。えへへ」  テンコはそう言って曖昧《ゐのいまい》に笑うと、不機嫌そうな佐間太郎《さニたろコつ》に視線を向ける。  ああ、怒ってるだろうな。たぶん、後つけたことも気付いてたかも知れないな。  なにせマックの窓に貼《は》りつくようにして見てたからなあ……。 「そうだ、神山《かみやま》くんは募金しないの?」  久美子はそう言うと、佐間太郎の腕を引っ張った。 「え? 俺《おれ》は朝したから」 「あ、そっか。一緒に住んでるんだもんね」  彼女はそう言って、テンコの方を見たが、なにも言わなかった。  なにをメンチくれてんのんじゃいとテンコは思ったけれど、ただ単に視線が合っただけかも知れない、そう思い直しコホンと咳払《せきばら》いをする。 「それにしても、今日は進一《しんいち》のやつ遅いな……」  佐間太郎は周囲を見渡しながら、そう言った。確かに、いつもならばこの時間に彼は登校しているはずだ。 「おはよーございますー」  そこに愛《あい》がやってきた。彼女は久美子を見ると、 「ちっ」と舌打ちをしたが、それはテンコにしか聞こえなかったようである。  うん、このコとは親友になれるかもしれない。テンコはそう思いながら、無言で愛と固い握手をする。 「お前ら、なに握手してんだよ。それより愛ちゃん、進一は?」 「それが、まだなんですよ。電話したら、具合が悪いから遅刻するって言ってました。だから、先に行きましょう?」 「うん、わかった」  そんなわけで、佐間太郎は三人の女の子と一緒に坂道を歩いた。  久美子を見るテンコと愛の視線が妙に怖かったが、きっと気のせいだろう。  校舎の中に入り、廊下を進む。愛は 「それではっ!」と言って隣のクラスに入って行った。佐間太郎は教室のドアを開け、中に入るが、あまりのことに声を上げてしまった。 「は……な、なんだよこれ」  なにごとかとテンコも教室へと入る。 「わ! どうしたの19…」  久美子《くみこ》も同様に入るが、二人ほどは驚かなかった。 「誰も、いませんね……」  彼女の言うとおり、一年A組の生徒は、三人を除いて誰も登校していなかった。  こんなことってあるだろうか。もしかして、他《ほか》の場所にいるのかもしれないと思ったが、そんな連絡は貰《もら》っていない。テンコは慌《あわ》ててB組の様子を見に行ったが、そちらはいつもと変わらず、生徒たちは登校しているようだった。 「なんでうちのクラスだけ誰もいないの? 学級閉鎖だっけ?」 「いや、そんなことはねえだろ。なんだろうな。珍しいこともあるもんだな」  三人は不思議に思いながらも、教師がやってくるのを待つ。しかし、やってきたのは担任ではなく、女教師だった。 「おはよう。三人、ね。三人か。そうか、残ったのは三人か。うーん」  彼女はどう説明すればいいのかわからなかった。テンコは手を挙げて、発言をする。 「あの、みんなどうしたんですか? それに、先生も。なにかあったんでしょうか?」 「それがね……。みんな具合がよくないって言うの。それで、遅刻ですって。揃《そろ》いも揃ってなんなのかしらね。最初は生徒たちのイタズラかと思ったんだけどね、先生まで同じことをおっしゃってたから。もしかして、このクラスのみんなでなにか食べた?」  三人は首を横に振る。 「そうよねえ、そうなのよねえ。食中毒かと思ったんだけど、そうじゃないみたいだし。不思議なこともあるものねえ」  女教師はそう言うと、自習を命じて教室から出ていった。二時間目には、みんなやってくるだろうということらしい。もちろん三人は自習などせずに、この不思議な現象について話しだす。 「なんなのかしらね。あたしたち、騙《だま》されてるんじゃないの?」 「いやー、俺《おれ》たち騙しても、誰も得しないだろうしなあ」 「本当に不思議ですよね。どういうことなんですかね」  ウームと首を傾《かし》げるが、誰も明確な答えを導き出すことはできなかった。  しばらくすると、やけに明るい声で進一《しんいち》が入ってくる。 「あー1おはよー1おはよー! あれ? 他のみんなは?」  佐間太郎《さまたろう》は女教師に聞いたことを、そのまま彼に話した。 「え! マジで! 不思議だね! むしろ、奇奇怪怪! こんなことってあるんだねえ。ムーに投稿してみっか」 「で、あんたなんか心当たりないの? 変な物食べたとかさ」  テンコは進一が思ったより元気そうなことに安心する。 「うーん。それが、なんもないんだよねえ。悪夢にうなされて、それで起きたら調子悪くてさあ。でも寝てたら直った」 「悪夢?」  佐間太郎《さまたろう》はその言葉が気になったようで、彼を促《うなが》した。 「そうそう、悪夢。なんかね、女の子が出てくるんだよね。赤いワンピース着てたなあ。んで、モデルみたいにガリガリに細くて、またこれがカワイイんだな」  そう言って進一《しんいち》は笑った。どこが悪夢だというのだろうか。 「そうだ、ちょうど久美子《くみこ》ちゃんみたいな体型だった。その娘《こ》がさ、これまた難しいこと言うんだよね。心がどうとか、生きててなんだとか。俺《おれ》、難しくてわかんなかったけど、なんかみょーに心臓が痛くなるんだよね、その言葉が。んで、結局その娘は、こっちにおいでみたいなこと言うんだけどさ。いやもう、行こうと思ったね! かわいかったから! でも、そこで目が覚めた」  なんじゃそりゃ。ただのエロい夢なんじゃないだろうか。 「遅れてすんませーん。あれ? みんなは?」  教室のドアが開き、またしてもクラスメイトがやってきた。彼はクラスメイトの藤崎《ふじさき》くんである。背が高くヒョロっとしていて、いつもガムを噛《か》んでいる。 「それがさ、この三人以外、遅刻だって。妙なこともあるもんだな」  進一が得意げに語る。それを聞いた藤崎くんは、カバンからバイク雑誌を取り出すと興味なさそうに返事をした。 「マジで? はあ〜、そうなんだ。まあ関係ないけど」  佐間太郎は、もしやと思って藤崎くんに聞いてみる。 「なあ、なんか夢見なかったか?」 「夢? 夢ぐらい見るよ。寝てんだからさ」 「そうじゃなくて、妙な夢」 「さあ? 女が出てきて、小難しいこと言ってたぐらいかなあ」  彼を除いた全員が、ビクッとする。テンコは、恐る恐るその続きを聞いた。 「え? たいした夢じゃねえよ。赤いワンピース着た女が、こっちこいとか言う夢。脈略ないけど、夢なんてそんなもんじゃねえの?」  テンコは言葉を失った。なんなんだ。なんなのかしら。なんなのよ。 『謎《なぞ》ですな』  不意にスグルの声がした。ずっと持っているのも面倒なので、カバンの中に突っ込んだのを忘れていた。 『どういうことよ、ブタ』 『出して……』 『うるさい。学校終わるまでそこにいて。で、識ってなんなのよ』 『なにかが起こり始めているのかもしれない……」  スグルは思わせぶりに言った。テンコは、妙な悪寒《おかん》を背中に感じる。 『起こり始めてないのかもしれない……』 『どっちよ!』  彼女はカバンをボコンと蹴り飛ばした。カバンの中から 「ぴぎ!」という小さな声がしたが、誰も気付かなかった。  しかし、スグルの予感は的中した。一時間目の終わりになって、ほとんどの生徒が登校してきたが、全員が同じ夢を見たと言うのだ。  男子も女子も、口を揃《そろ》えて 「夢の中に女の子が出てきた」と告げる。クラス中は、その話題で持ちっきりになった。休み時間になると、舜に報告するためだろう、鳳しそうに趨一《いち》が隣のクラスへと走っていった。きっと 「夢の中でも女の子なの! 絶交です!」と言われるに違いない。  佐間太郎《さまたろう》とテンコと久美子《くみこ》は、なんで自分たちだけその夢を見なかったのかという話をした。テンコは、自分と佐間太郎は人間じゃないからいいとして、どうして久美子が同じようにしていられるのかと考える。  しかし、どう考えても答えなど出るはずもない。そもそも、なぜクラスメイトの全員が同じ夢を見たのか、というところからしてわからないのだ。  二時間目が始まると、担任がやってきて 「遅れてすまない」と謝った。 「お前らも遅刻したそうだな? なんでも、この異常事態はうちのクラスだけだったそうだぞ? なんかしたのかって校長に問い詰められちまったよ。まいったまいった。まったく、朝からあんな夢を見るし、今日はついてないな」  テンコは反射的に立ち上がった。 「あんな夢って。赤い服の女の子の夢ですかつ・」 「おー。なんでお前知ってんだ?」  その瞬間、クラスは騒然となった。みんなが同時に見た悪夢の話題は、放課後になっても終わることはなかった。  佐間太郎が気になったのは、結局登校してこなかった生徒のことである。  二人だけ、男子と女子が欠席した。もしかしたら、ただ風邪を引いただけかもしれない。  しかし、この異常事態の中では、気になってしまうのもしかたない。  男子は、友達のいない暗い生徒だった。いつも誰とも口を利《き》かず、一人でノートに猫の絵を書いていた。女子の方は、友達が多いが空想癖《へき》のある生徒だった。誰かと話している途中でも自分の世界に入り、声をかけるまでボケッとしている。なにを考えているのかはわからない。いつもリストバンドを左手にしていて、それが彼女のトレードマークになっていた。 「うーむ、わからん。全然わからん」  彼が席に座って悩んでいると、いつ間にか久美子《くみこ》が目の前に立っていた。 「神山《かみやま》くん、お悩み事は解決しましたか?」 「え? い、いや。う:ん。全然」 「そっか。わたしにもチンプンカンプンです」  はい、ここ注目です。この平成の時代に、 「チンプンカンプン」という単語を使う女の子。  なかなかいません。佐間太郎《さまたろう》のグッとくるポイントを突いたよです。 「そっか、チンプンか」 「うん。カンプンなのです」  そう言って二人は視線を合わせると、えへへ〜と笑った。 「ちっ」  もちろん横で舌打ちをしているのは、テンコである。穏《おだ》やかに見守りたいという話は、まるでなかったことになっているようだ。 「久美子さん、早く帰ろう。なんかテンコ、まだ機嫌悪いみたいだから」 「あ、はい。わかりました。テンコさんっ」  久美子はテンコに近寄ると、ポケットティッシュをひとつ渡した。 「へ? なにこれ?」 「大変だと思いますけど、頑張ってくださいね。花粉症」  しまった、と佐間太郎は思った。まさか信用してるとは。もしかして、彼女ってばちょっと天然なのだろうか。 「なに? 花粉症って? 今、九月だよ?」 「はい。知ってます。九月だからこそ、大変なんですよね?」 「ちょっと佐間太郎、変なこと吹き込んだんじゃないでしょうね」  彼は慌《あわ》てて立ち上がると、久美子の手を引いて逃げ出す。 「じゃあな、テンコ! メシは久美子さんと一緒に食べるからいらない!」 「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! なによこのポケットテッシュ! いらないわよ1」  二人は息を切らして校門まで辿《たど》り着いた。途中で進一《しんいち》と愛《あい》にすれ違ったが、まったくの無視である。もし一言でも会話をすれば、 「よし、一緒に帰るか。むしろダブルデートか!」  と進一が言い出すに決まっている。久美子と付き合いたての佐間太郎としては、少しでも二人で一緒の時間を過ごしたいのだった。 「はあはあ……神山くん、走るの速いです」 「ごめんごめん。色々と事情がね。うんうん」  そんなこと言いながら、二人は坂道を歩き出した。久美子の家は学校から駅へ向かう道の反対だが、どこかで食事を取るなら商店街へ向かったほうがいい。 「だけど神山《かみやま》くんて、いっつもテンコさんのこと気にしてるんですね」 「え? ああ、まあね。あいつ機嫌悪くするとうるさいからさ」  何気なく言ったつもりだった。しかし、久美子《くみこ》は歩調を緩《ゆる》めてため息をつく。 「はあ。羨《うらや》ましいです、そういうの。だって神山くんは、いつもわたしのことなんて考えてくれないですよね? いつだってわたしのことを想《おも》ってて欲しいのに……」  ドキンチョナ。である。もう一回言います、ドキンチョナ。 「いや、俺《おれ》、久美子さんのこと考えてるって。うん。マジで」 「本当に? 嬉《うれ》しいです。これからは、わたしのことだけ考えててくださいね。なんて、ちょっと図々しいですか?」 「いや、んなことないよ。考える。久美子さんのことだ……」  悪夢だ。悪夢の宴《うたげ》が始まる。そう佐間太郎《さまたろう》は感じた。アングリと口を開け、完全に言葉が出てこない。 「うん? 神山くん、どうしたんで……」  それは久美子も同じことだった。なぜなら、坂道の途中に、かなりあれなものを発見してしまったからだ。  読者のみなさん、お気付きでしょうか。そうです、そこには白装束《しろしようそく》を着た、ママさんが立ち尽くしていたのです。しかも裸足《はだし》です。 「チョロ美《み》……。帰宅け?」  ママさんはそう言った。頭にはハチマキを巻き、そこに二本のロウソクを鬼のツノのように立てている。さらに、右手にはトンカチ、左手には藁《わら》人形を握り締めていた。藁人形には 「チョロ美」と書いた紙が、五寸釘《くぎ》で打ち付けてある。 「久美子さん、違う道で行かない? ちょっと遠回りになるけどね」 「え? で、でも、あそこにいるの、神山くんのおばさんですよね、だったらご挨拶《あいさつ》しないと……」  その瞬間、ママさんの目がカッと光った。素早く前傾姿勢を取り手をビシッと伸ばす。 「荒ぶる鷹《たか》のポーズ!」  そう叫《さけ》んだかと思うと、そのままの姿勢で、ビックリするぐらいのスピードで近づいてくる。 「わあああああ! オフクロ、それ怖い! それ怖いから!」 「きゃあああああああ! 神山くん、なにP”なんなのP」  パニックになる二人を尻目《しりめ》に、ママさんはドスの効いた声で叫び続ける。 「こ〜のう〜ら〜み〜はらさずにいられませ〜ん! チョロ美、死をもってその罪を償《つぐな》いなさい!」  彼女は急に角度をキユッと変え、電柱に藁《わら》人形を打ち付けはじめた。 「チョロ美《み》! 死ね! チョロ美1死ね!」  そう連呼しながら、五寸釘《くぎ》をパッキンバッキンとトンカチで叩《たた》く。コンクリの中に釘がバスバス埋まっていく。なんてパワーだ。 「おっほっほっほ! チョロ美! ママさんの呪《のろ》いからは逃げられないのよ!」  最後に渾身《こんしん》の一撃を加えると、彼女は満足したように笑った。ハァハァと肩で息をしながら、二人のいる方を振り返る。  しかし、元気に立っている久美子《くみこ》を見て、ママさんは心底驚いたようだった。 「あああああ1なぜPなんで立っていられるのー9”確かに呪ったはずなのに!」  プルプルと震え、その場に崩れ落ちるママさんに、久美子はポツリと眩《つぶや》く。 「あの……。わたし、チョロ美じゃありませんから」 「ガビーン! 騙《だま》された! ママさん、この泥棒猫に騙されたにゃ…ん1」  彼女はそう言うと、ヒンヒンと泣きながら駅の方へ走っていった。きっと、素直に帰宅するのであろう。寂しげに藁人形が風に吹かれ、電柱の上で揺れている。 「あの……久美子さん、ごめんね、あんな家族で」 「う、ううん。ちょっとビックリしたけど、その」  久美子は一呼吸置いて、こう続けた。 「いいなって思いますよ」 「藁人形が?」 「違います」  ちなみに、今のは即答である。 「ああいうふうに、家族の人に心配してもらえて。羨《うらや》ましいなって。わたしなんて、お母さんに想《おも》われたことなんてないですから」 「そうなの? だって、あんなに親孝行じゃん。感謝されてないの?」 「う〜ん。なんだろう。とにかく、そんなことないですよ」  佐間太郎《さまたろう》は、自分にはわからない複雑な事情があるのだなと思った。彼女の口から、父親の話が出てこないのも、それに関係しているのかもしれない。 「まあいいや。メシ食いに行こう」 「そうですね。行きましょう」  久美子は佐間太郎の手をギユッと握った。  それから数分後、進一《しんいち》と愛《あい》も同じように手を繋《つな》ぎながら、その坂道を下校していた。  進一は電柱に打ち付けられた藁人形を見て、不思議そうな顔をする。 「なあ、愛ちゃん。チョロ美って誰《だれ》?」  愛はウーンウーンと考えていたが、結局こう答える。 「さあ?」  またひとつ菊本《きくもと》高校に謎《なぞ》が増えるのだった。  そんな謎に名探偵テンコが挑みます。 「ええと、確かここのはずなんだけどなあ……」  佐間太郎《さまたろう》と久美子《くみこ》が帰った後、進一《しんいち》と愛《あい》の 「一緒に帰ろう」という誘いをテンコは断つた。彼女にはやらなくてはならないことがあったのだ。 「おいテンコ。あんまり変なことするんじゃないそ?」 「大丈夫、あたし、めちゃめちゃ普通の女子高生だから、見た目は」  胸にブタの貯金箱を抱き、それに向かってブツブツ眩《つぶや》く女の子のどこが普通だと言うのだろうか。現に、すれ違いざまに通行人が目を逸《そ》らしているというのに。もちろん、テンコは住所を頼りに家を探すことに必死で、そんなことには気付いていない。  職員室にコッソリと忍び込んだ彼女は、生徒の名簿から久美子の住所を入手し、こうして彼女の家に向かっているのだった。  なぜ久美子が怪しいと睨《にら》んだのか。それは天使の勘である。それが一割。残りの九割は、佐間太郎と付き合っている、あの女の実態を調べてやろう、という嫉妬《しつと》心からであった。  もうすぐ天国に帰ってしまうのだ。これから佐間太郎を彼女に任せるのだとしたら、ちゃんとどんな人物なのか調べなくてはならない。そう自分に言い訳しながら、スグルを抱いて住宅地を歩く。  さっきから、同じ道をグルグルと回っているような気がする。確かに住所は合っているのだが、それらしい建物が見当たらないのだ。 「なあテンコ。そこじゃないのか?」  スグルが言ってるのは、目の前の貧相な木造アパートのことだ。 「なに言ってんの。久美子さんみたいなお嬢様が、こんなとこ住んでるわけないでしょ」 「なんでお嬢様って知ってるのだ?」 「え? 見た目」 「…………」  しかし、いくら探しても高級マンションやら高級メゾネットやらは見つからない。諦《あきら》め半分で、アパートの住所を確認してみる。 「あ……ここだ」  テンコは、そのアパートの住所と久美子の家が一致することに気付いた。 「なに、あの子、ここに住んでるんだ……。親しみやすいわね」 「それ、悪口?」 「違うわよ」  音を立てないように、ゆっくりと階段を上り、突き当りの部屋のドアの前まで行く。  そこには紙にマジックで書いた 「小森《ニもり》」という表札が、プラスティックの透明なプレートの中に挟まれていた。 「うん、間違いない。ここだ」 「ここだ、はいいけど、それでどうするのだ?」 「……さあ?」  考える前にまず行動。残された時間の少ないテンコにとっては、迷っている時問などないのだ。それにしても無計画すぎるが。 「とりあえず、おばさんに会ってみましょう。プリント持ってきたとか嘘《うそ》ついて。それで人柄を見るの」 「勝手にするんだな」 「勝手にするもん」  インターフォンのボタンを押すと、キンコンという音が外まで響いてくる。よほど壁が薄いのだろう。ドアだって、これで防犯関係は大丈夫なのだろうかと心配してしまうほどに簡素な作りだ。 「さて、どんなお母さんでしょうかっ」  テンコは前髪を手でサッサッと直し、スグルをカバンの中に突っ込むと久美子《くみこ》の母親が出てくるのを待った。  しかし、だいぶ待ったが中から誰《だれ》かが出てくる気配はない。 「あっれ、おっかしいな」  キンコンキンコンキンコン。  今度は三回連続でベルを押してみる。すると、ようやく部屋の中を誰かが歩く音が聞こえてきた。 「あ、きたきたっ」  その音は、まるで玄関に向かってダッシュをしているようなハデな音だった。しかも、ドアに近づいているのに速度を落とす様子がない。 「え……なに、まさか」  そのまさかであった。バコォーンと大きな音がしたかと思うと、内側から破裂するよう一にドアが開いた。きっと、扉に向かって蹴りを入れたのだろう。  突然の出来事に、テンコは言葉を失った。 「あー! なに! 新聞は取らないって言ってるでしょ! 殺すそ1」 「…………」  テンコは、目を丸くした。なんなんだ。小森さんち、ここですよね、確か、ね。  出てきたのは、二十代前半の女性だった。もしかして、久美子の姉だろうか。 「あの、小森《こもり》さんのお宅でしょうか?」  おびめにらき怯えきった表情でテンコは聞いた。彼女は恐ろしい眼つきで睨みを利かせると、低い声で答える。 「そうだけど。なに? あんた、なに?」 「あの、久美子《くみこ》さんのクラスメイトの……」  そう言うと、彼女はニヤッと笑った。寒気《さむけ》を感じるような、嫌な笑顔である。 「はあはあ。なるほど、久美子の同級生ね。ん? あんた、妙な臭いがするね」  え! 昨日ちゃんとシャワー浴びましたけど! そう反論したかったけれど、怖くてなにも言えない。 「あの、その、失礼ですが、どなたですか……?」  人の家に訪問しておいて、どなたというのも変な話だ。しかし、彼女にはどうしても、この凶暴な女性が久美子の家族だとは思えなかった。偶然遊びに来ていた、近所の泥酔OLとかがバッチリな感じだ。 「フミコ」  フミコって言われても……。テンコはうろたえる。 「ええと、久美子さんとのご関係は?」 「ん?」  フミコはテンコの臭いを嗅《か》ぐように、大きく鼻を動かした。 「はっは〜ん。あんた、テンコだね」 「はいっP違います! トド美です1」  正体がバレたのが怖いのではなく、本能的な危険を感じ、咄嵯《とつさ》にテンコは嘘《コつみト》をついた。 「トド美? ふう〜ん。そうかいそうかい。まあ、ヒがんなよ。ちょうどいい機会だ」  そう言って彼女は、部屋の中ヘテンコを招き入れようとする。 『テンコ! 危険な予感がするぞ!』 『予感じゃなくて、完全に危険じゃない! なにこの人、目がイってるし!』  カバンの中のスグルと緊急会議を開催する。フミコは薄いキャミソールにスリムなシルエットのジーンズをはいていた。見た目は久美子に似て、とても美人だ。しかし、行動や発言が尋常ではない。種類的には美佐《みさ》と似ているが、もつと過激で不吉である。 「どうしたのP”入んないのP入らないんだったら……」  フミコは台所に行くと、バンッと包丁を掴《つか》んだ。 「ここで料理してやろうか!」  オカルトである。ホラーである。パンクである。ここは日本なのか、大丈夫か政府。 「失礼しましたあ〜!」  そう言ってテンコは転げ落ちるように階段を降り、全速力で逃げ出した。 「なにあれ1なんで料理なの! もしかして、中に入って料理を作ってあげようと思ったけど、入らないならここでゴチソウするわね、的なコミカルな演出の前振り19…」 「わからん! とにかく逃げろ、テンコよ1」  スグルはカバンから飛び出し、今までに見せなかった速いスピードで飛行する。 「あんた、そんな速く飛べるのρ…」 「緊急事態だからな!」  もう大丈夫だろう。そう思ってテンコは走るのを止《や》めた。ゼイゼイと息をしながら、口の中に鉄の味を感じる。こんなに走ったのは久しぶりなのではないか。 「はあ遺あ…:・あんた、もう、平気だから、止まりなさいよ……」  遥《はる》か彼方《カなた》から、スグルが心の声を飛ばしてきた。 『まだ止まるな! 走れ!』 『なんでよ! もういいでしょ!』 『テンコ後ろ後ろ1』  横っ腹を押さえながら後ろを振り返ると、髪を振り乱したフミコが、包丁片手に走っているのが見えた。 「待ちなさいテンコー1」 「ぎやあああああ1シャレになってないですよー1」  テンコはわざと細い路地に入り、迷いながらも止まることなく全力で走り続ける。 『ブター! どこにいんのよ!』 『商店街の雑貨屋さんで、さりげなく商品として並んでるから迎えに来い!』 『なんで偉そうに命令してんの!』  テンコはようやくフミコを振り切ると、商店街にある雑貨屋さんに入った。 「はあはあ……どこよ、ブタ……」  しかし、店内をいくら探してもスグルは見つからない。  きっと放っておいても、勝手に帰ってくるだろう。そう考えた彼女は、スグルを探すごとを諦《あきら》めて店の外に出た。  左右を確かめ、フミコが追ってきてないか確認する。大丈夫だ、ここまではやってきてないらしい。名探偵テンコ、謎《なぞ》のフミコをまきました! 「あれ、テンコさん。どうしたんですか?」  店先の階段で休んでいると、女の子の声がした。一瞬ビクッとしたが、フミコのような凶悪な声ではない。見上げると、そこにはビニール袋を持った愛《あい》が立っていた。 「お買い物ですか、テンコさん?」 「いいや、ちょつとね、スポーツの秋だし、短距離走をね……」 「そうなんですか。ふう〜ん。じゃあわたし、今日はもう帰りますね」 「うん、じゃあね。バイバイ」  愛《あい》は笑顔で手を振りながら、いそいそと歩き始めた。 『テンコ、テンコよ』  その時、心の中にスグルの声が聞こえた。 『なに、あんたどこにいんの』 『愛の持っている袋を見てみるんだ』 「袋?」  雑貨屋のすぐ近くにある踏み切りには、電車が通過するのを待っている愛がいた。  スグルの言うとおり、彼女の持っているビニール袋を見てみる。 「あああああ! 買われてるし!」  そこには、スグルがチョコンと入っていた。商品に混じって隠れていたはずが、うっかり愛に購入されてしまったのだった。 『うむ。買われた』 『買われたじゃなくて! なにしてんの!』 『ヘルプミーですな』 『黙れ! 一生黙れ!』 「ちょっと愛ちゃん! ごめん、お願いがあるんだけど1」 「あれ、テンコさん。なんですか?」  愛は不思議そうな顔でテンコのことを見る。 「あのね、前から欲しかったなーと思ってたブタの貯金箱があったんだけど、さっきお店の中になかったのね。もしかして、愛ちゃん買った?」 「はい、買いましたよ。すっこいブサイクでカワイイんです」 『失礼な女め! テンコよ、蹴れ!』 『だから一生黙れ!』  スグルの声を無視しながら、彼女は悲しそうな顔を作って言った。 「あのね、それね、本当に前から欲しかったんだ。だから、譲ってくれたら嬉《うれ》しいなーって思ってね……」 「ええ〜。譲るんですか?」 [愛は少し不満そうな顔をする。買ったばかりの貯金箱を取られるのは、さすがに抵抗があるようだ。 「はい、いいですよ!」  なかった。全然なかった。 「買ったものの、やっぱりいらないなーって思ってたんで。だって、よく見ると全然かわ 「いくないし」 『テンコ、顔を狙《ねら》って蹴《け》れ1顔の中心だ!」 『お願いだから黙ってて!』 「じゃあ、これ、はい」  愛《あい》はビニール袋ごとスグルをテンコに渡すと、すぐに踏み切りを渡り出した。 「ああ、愛ちゃん1お金、お金1」 「いいですよ、二十円だったし! それじゃ、また明日1!」  そう言って愛は帰っていった。テンコは、どつと疲れるのを感じる。 「あんた……安いのね」 「特価品のところに入ってしまったからな」  彼女はビニール袋からスグルと取り出すと、とりあえず地面に思い切り叩《たた》き付けたのだった。ぴぎー。  家に帰ったテンコは、真《ま》っ直《す》ぐに佐間太郎《さまたろう》の部屋へと向かった。居間でママさんが白い和服を着て号泣していたが、あえてそれは無視をする。久美子《くみこ》との夕食を終えて帰宅していた佐間太郎は、テンコが泣きそうな顔をして部屋にやってきたので何事かと慌《あわ》てる。 「なんだよ、どうした? なんかあったのか?」 「お願い佐間太郎。今すぐ久美子さんと別れて」 「はP急になに言ってんだP」 「いいからそこに座って。なにも聞かないで。ね? ね?」 「う、うん……」  彼女のあまりに真剣な態度に押され、言われるままにベッドに座る。 「久美子さんのお姉さん、変だよ。絶対におかしい。だから、あんまり関わって欲しくないの」 「お姉さん? テンコ、大丈夫か、頭?」 「大丈夫じゃないかもしれない。だって、あんなの初めてだったし……。ともかくね、フミコは危ない。本気で危険。だから、久美子さんからも手を引いて? もし佐間太郎になにかあったら、あたし……」 「ごめん、お前の言ってることがわかんねえ。フミコって、誰?」 「うう、なんでわかってくれないの? 久美子さんのお姉ちゃんでしょ?」  佐間太郎は、本当にテンコの言っていることがわからなかった。  久美子の家に行った時にいたのは、病弱そうな母親だけだった。姉がいるなんて、彼女からも聞いたことがない。 「あのね、変なのはお前だろ。最近ずっと貯金箱抱いてるし」  確かに彼の言うとおりだった。最近のテンコは、ずっとスグルを肌身離さずに抱きしめている。事情を知らない者にとっては、あらあらテンコちゃん最近疲れてるんじゃないの? という感じである。 「貯金箱には理由があるのです。でも、そんなのどうでもいいの。お願いだから、伽知みさんとはもう、別れてくださいっ」 「は、はあ……」  そこで佐間太郎《さまたろう》は、ようやくテンコの言っている意味がわかった。もちろん、彼なりに、ということだが。 「そうか、なるほど。そういうことか」 「な、なに? なんで笑ってるの?」 「ヤキモチだろ。だから久美子さんの悪口言って、別れさせようとしてるんだろ?」 「そ、そうじゃないでしょ! 本当のことだってば1あたしはね、包丁持ったフミコに追いかけられたんだからね1」 「だからフミコって誰《だれ》だよ! 包丁持って追いかけるなんて、あるわけないだろ1」  あったのだからしかたがない。しかし、なんと言っても佐間太郎は信じてくれそうになかった。 「なんで佐間太郎。ねえ、あたしのこと信じてくれないの?」  テンコはスグルをキツく抱きしめる。このブタを抱いていると、なぜか安心してくるのだ。不思議なものである。愛着だろうか。 「信じてないわけじゃないけどさ。だけど、俺《おれ》は久美子さんちにも行ったんだ。その時にお姉さんなんていなかったし、彼女からそんな話も聞いてない。母親と二人で暮らしてるって言ってた。テンコはそんな嘘《うそ》つくか? 嫌いだな」 「嫌い……ですか。はあ、そっか、お家《やつひり》まで行ったのか……」  テンコは急に大人しくなると、佐間太郎を説得することを諦《あきら》めて部屋へと戻る。 「お、おい。なんだよ、それだけかよ、話って」 「うん、そう」  それきりテンコは、部屋に閉じこもって出てこなかった。  佐間太郎は、自室で彼女の言葉を繰り返し考えていた。テンコは少し足りない部分はあるが、あんな嘘を言うようなことはなかったはずだ。だとしたら、彼女の言っていることは本当なのだろうか?  それに、久美子に対する違和感も気になっている。一緒にいて楽しいしドキドキする。  しかし、それと同時に 「このままでいいのだろうか」という不安もあった。テンコと幼馴染《おさななじ》みという位置を決定的にしてしまって、このまま久美子と付き合うのは本当に正しいことなのだろうか。心のどこかで、ずっとテンコに対しての気持ちが消えないのはなぜなのだろうか。 「あーもー! わかんねえよ1」  彼はそう叫《さけ》ぶと、枕《まくら》に顔を伏せる。  ちなみに、朝食に続き夕食まで作ってもらえなかったママさん、美佐《みさ》、メメは、揃《そろ》って食卓でカップラーメンをすすることになるのだった。  その夜、窓の外から聞こえる妙な音でテンコは目を覚ました。  最初はスグルが動いているのかとも思ったが、そうではないらしい。  気のせいかと思って眠ろうとしたが、胸騒ぎがしてそれどころではなかった。 『ねえ、外から音がしない?』  スグルに心の声を飛ばすと、眠たそうな返事が帰ってきた。 『うーん。確かにちょっとうるさいな。泥棒かもな』 「だったら見てこなくちゃ」  テンコはパジャマの上に長袖《そで》のアディダスのジャージを羽織《はお》り、スグルを抱きしめて外へ出た。分厚い雲が空に張り付き、月の光を遮っていた。  昨日までは煙《こ・つこう》々と夜道を照らしていた街灯も、ひとつ残らず沈黙している。 「なんだか気味が悪いわね」 「うむ。嫌な感じだな」  庭にも家の前の道路にも不審人物がいなかったので、彼女は部屋に戻ることにした。  しかし、少し離れた場所から、道路に金属を引きずるような妙な音が響く。 「……今の、聞こえたよね?」 「……うむ。さて、寝るか」 「じゃなくて、調べなくちゃでしょ!」  変に正義感のある彼女は、スグルを強く抱きしめて音のする方へと向かった。心細いからではない。もしなにかあったら、スグルを投げつけようとしているのである。  ほぼ真っ暗な道路の真ん中に、人影が動いているのが見えた。目を凝らすと、それは女の子のシルエットに見えた。 「なに? こんな時間に女の子が歩いてたら、危ないのに・…:」  それは自分も同じであるが、彼女は心配になってシルエットに近づいた。  少女もテンコに気がついたのか、ゆっくりとコチラに向かってくる。  テンコは、彼女の姿を凝視した。風が吹き、雲が移動する。真っ黒な空の隙間《すきま》に、黄色い満月が顔を出す。月の光に照らされた雲が、不吉ななにかを予感させるように輝いた。 「こんばんは、テンコさん」  彼女はそう言って、ニッコリと微笑《ほほえ》んだ。一瞬人違いかと思ったが、少女の着ている真っ黒いセーラー服には確かに見覚えがあった。冷たく、まったく表情のない顔が月明かりに照らされる。 「あなた……久美子《くみこ》さん?」  道路の真ん中に立っていたのは、他《ほか》でもない久美子だった。  もしかして、佐間太郎《さまたろう》に会いにきたのかとも考えた。しかし、彼女の表情は、そんなに穏《おだ》やかなものではなかった。  プラスティック製の人形のように生気がなく、瞬《まばた》きさえ一切しない。 「今夜は月がきれいですね」  そう久美子は続けた。テンコには、彼女の意図がまったくわからない。 「なんでこんな時間にうちの前にいるの? 佐間太郎になにか用?」 「うち? ああ、ここはテンコさんの家の近くでしたね。すっかり忘れてました」  彼女はそう言うと、スゥッと腕を振り上げる。その手には、死神が持つような巨大なカマが握られていた。半月状の刃の部分が、真っ赤な血に染まっている。彼女の指先には、真っ赤なマニキュアのように血がついていた。 「なにPあんた、なにしてきたのよ!」 「なにって。お仕事ですよ。しかたないじゃないですか」  よく見れば、もう片方の手には、大きなクマのヌイグルミが握られている。無残にも、腹の部分が刃物で切られたように裂けて、中から綿が飛び出していた。 「なにしたの? どういうこと?」 「テンコさんも天使ならわかるんじゃないですか? それとも、わかりませんか? ああ、わからないかもしれませんね」  テンコは冷水を頭からかぶせられたような気がした。  正体がバレている。あたしのこと、天使だって知ってる。  どうしてだろう、佐間太郎が教えたのだろうか。それとも、自分で気付いたのだろうか。  頭から湯気を出している姿を見てそう思ったのかもしれない。だけど、それだけで天使だってわかるだろうか。恐怖、湯気少女みたいな妄想《もうそう》で終わるんじゃないだろうか。というか、頭から湯気が出るだけの女の子なんて、恐怖でもなんでもないが。 「テンコさん、わたしね、悲しいの」  持っていたヌイグルミを放り投げ、カマを月の光にかざす。それは、なにかの儀式のようにも見えた。 「でもしかたないですよね。だって、そういうふうにできてるんだもの」  テンコは、胸に抱いてたスグルに力を込める。 『なに、どういうこと? 全然わかんないんだけど』 『テンコ。逃げろ。見たらいけない。関わるな!』 『だから、どういうことよ? なんなのよ?』  脚久美子《くみこ》はビクンと体を震わせると、その場に崩れ落ちた。テンコは咄嵯《とつさ》に駆け寄って助けようと思ったが、体が固まったみたいに動かなかった。  彼女は膝《ひざ》をついたまま顔を上げる。  眼球が真っ赤に染まっていた。人間の瞳《ひとみ》ではない。それは、完全に異形《いりさよつ》の物の目だ。 「久美子さん……まさか」  ゆっくりと久美子が立ち上がると、スカートの中から電気のコードのようなものが一本だけ垂れ下がった。彼女の髪の毛や制服と同じで、真っ黒い色をしている。  その先は、矢印のような三角をしていた。尻尾《しつぼ》である。 「テンコさん。今夜は、月がきれいなんですよ?」  布の裂ける音が小さく聞こえた。次の瞬間、彼女の背後に巨大な影が現れる。 「なに? なんなのー7」  テンコの体はまだ動かない。動かすことができない。 「なんだと思いますか?」  それは影ではなかった。巨大な羽だった。それも、真っ黒い、コウモリのような羽だった。テンコは、ようやく久美子の正体に気がつく。 「あなた……悪魔?」  久美子は、無表情な顔のままで首を縦に振った。  そうか。そうか。テンコの中で、今まで疑問に思っていたことが解決する。  一番最初、まだ夏だった頃《ころ》、久美子と佐間太郎《さまたろう》が出会った時。  いつもならパパさんが奇跡を使って、久美子の心を操作したはずだ。  だけど、そうはならなかった。パパさんは昼寝をしていて、佐間太郎に奇跡を起こすことができなかった。テンコは、それがただの偶然だと思うようにしていた。しかし、どこか割り切れなかった。パパさんが、愛する息子の初恋という大事な場面で、昼寝なんてしていて気付かないことがあるのだろうかと、不思議に思っていた。  しかし、その謎《なぞ》は解けた。悪魔である久美子が、意識的にそうさせたのだ。  どういう仕組みかはわからない。だけど、きっとそうだ。 「久美子さん。聞きたいことがあるんだけど」 「なに、テンコさん」 「あなた、神様の奇跡って信じる?」 「さあ? わからない。だけど、わたしには起こらないでしょうね」  彼女はそう断言した。ということは、もしかして夏にパパさんの起こした奇跡は、全《すべ》て利《き》いていなかったのだろうか。美佐《みさ》やメメが起こした女神の吐息も、全て彼女には通用しなかったのだろうか。  だとしたら、どうして奇跡に操られた振りをしたのだろう。 「わたしはね、神山《かみやま》くんを取り込まなくちゃいけなかったの。こっちの世界に」  久美子《くみこ》は、蛇みたいに尻尾《しつに》を動かしながら言った。 「お母さんのためにね、強力なエネルギーが必要だったからね。最初から神山くんが普通の人間じゃないって知ってた。わたしに恋をさせて取り込もうって思ってたの。だけど、失敗だった。彼ったら、わたしを選ばなかったんですもの。自分の世界を取り戻した。途中まで上手《,つま》くいってたんだけどね。自分自身で選択させたようにして、大切な物を奪っていくことにね。友達、家族、そして愛する人。全《すべ》て、ね」  テンコには、詳しいことはわからない。今彼女が話しているのは、佐間太郎《さまたろう》の心の動きのことについてだろう。 「わたしは引越しなんてしてないもの。ずっとこの町にいたわ。それから、人の夢の中に入って、心の弱い人間を取り込んで、お母さんの力になるようにした」  夢。心の弱い人間。クラスメイトが学校で話していたことと合致する。 「だけど、もう、限界ね」  久美子の瞳《ひとみ》から真っ赤な涙が流れた。 「わたしが取り込まれそう」  風が吹いた。雲が流れ、世界が暗黒に包まれる。月は闇夜《やみよ》に飲み込まれた。  テンコの体は、ようやく自由に動くようになった。慌《あわ》てて彼女の側《そば》に駆け寄るが、既《すで》に道路には誰《だれ》もいなかった。 「なに? なんなのP”幻覚P夢P」 「夢かもしれんな。いや、テンコ。これはお前の見た夢だ」  胸の中でスグルがつぶやく。  世界が一瞬で切り替わった。  頭が混乱する。そこは、テンコの部屋の中だったのだ。  窓からは太陽の光が差し込んでくる。既に朝だ。ベッドから体を起こすと、机の上でスグルが言った。 「おお、おはよう。今日は早いんだな」 「……なに。夢なの? なんなの?」 「どうした? なにかあったのか?」 「わかんない。なにこれ、全然わかんない」  テンコはそう言って頭を抱える。彼女は酷《ひど》く混乱していた。  もしかしたら、本当に全ては夢だったのかもしれない。久美子に対する嫉妬《しつと》心から生まれた、くだらない空想だったのかもしれない。 「ねえブタ。あたしとあんた、外に出たよね?」 「外に? いつの話だ?」  スグルは不思議そうに言った。まったく覚えていないようだ。 「あーもー! ムカつくっ!」  テンコは枕《まくら》をスグルに投げつける。 「ブヒー!」  彼はそう言って、机の上でハデに転げまわるのだった。  第四章キスその日の朝、佐間太郎《さまたろう》が起きてくる前に、神山《かみやま》家名物の家族会議が行われた。  出席者はママさん、美佐《みさ》、メメ、そして発起人であるテンコである。もちろん、スグルは彼女に抱えられた状態でいる。 「えー、久美子《くみこ》さんは魔物を飼ってます。心にじゃないです、自宅にです。名前はフミコ。姉です。佐間太郎は知らないと言っていますが、ばっくれです。しらばっくれです。なので、神山家のみなさんは、協力して、佐間太郎が久美子さんと別れるように仕向けてください。以上です」 「はいっ」 「はい、ママさん」 「フミコって、どっかで聞いたことあるような気がするんだけど」 「フミコなんて名前、どこにでもいます。昔の同級生でしょ」 「あ、そうかも! ありがと、テンコちゃん」  あっけらかんとしているママさんと、不機嫌なテンコのコンビネーション。なんだか傍《はた》から見ていると平和そうな、いつもの神山家の光景に思える。  しかし、今回ばかりはシャレにならんのんじゃ、とテンコは本気だ。久美子《くみこ》についての疑惑は晴れていない。  朝、何度も彼女はスグルに 「昨日のことは夢だったの?」と問い詰めた。彼はまったく覚えがないし、なにを言っているのかわからないと繰り返す。  それでもテンコは、あれが夢だとは思えなかった。  昨日の夜の久美子の真っ赤な瞳《ひとみ》。そのワインのように深い色が、頭に焼き付いて離れない。本来ならばそのことも会議で報告したかったが、本当に夢だったら引っ込みがつかない。そこで、スグルも覚えているという、フミコのことだけを議題にしたのだった。 「では解散であります」  テンコが言うと、美佐《みさ》がゆっくりと手を挙げた。 「どうしましたか、美佐さん」 「今日は朝食、作ってくれますか?」 「もちろん」  その時、メメのお腹がグルルルギュ〜と音を立てる。なにも言わないが、空腹らしい。 「メメちゃんごめんね。今からゴハン作るから……」  キッチンに行こうと立ち上がりかけたところで、彼女の声は止まった。  佐間太郎《さまたろう》が廊下を歩いていくのが見えたからだ。 「ちょっと、佐間太郎! 待ってよ!」  玄関から出ていってしまった彼を、テンコは急いで追いかけた。残された三人は 「またカップラ! メンかあ……」とボンヤリ思うのだった。 「ちょっと佐間太郎、待ってって言ってるでしょー7”フミコ問題が解決しないと、早朝デート禁止だからね!」 「うるさいなあ。あんなデタラメ、信用できないよ」 「それだけじゃないんだからね! 久美子さんてば……」  そこまで言って、テンコはためらった。スグルは、昨日のことは全《すべ》て夢だと断言したのだ。なのに、そのことを持ち出して彼を引き止めるわけにはいかない。 「なんだよ? それに、久美子さんがどうしたんだよ?」 「その……あの人……は……」  ダメだ。言えない。というか、言っても信用してもらえないだろう。 「ふっ。わかったよ、行っておいで。いってらつしゃい。ハバナイスデー」 「……そんなに行って欲しくないのか?」  佐間太郎は面倒くさそうに言う。テンコは、下を向いたまま答えた。 「うん。行って欲しくない。どうしてもです」 「わかったよ、じゃあ今日のデートは中止」 「えっP」  テンコは、驚きの余り妙な裏声で叫《さけ》んでしまった。佐間太郎《さまたろう》は玄関まで戻ると、居間に置いてある電話を使って久美子《くみこ》に連絡を入れた。 「ああ、もしもし? 俺。うん、ちょっと用事できちゃって。そうそう。だから行けなくなった。ごめんね。いつかこの埋め合わせはするから。うん。じゃあ、学校でね」  受話器を置くと、彼は 「これでいい?」とだけ言って部屋に戻っていってしまう。  こんなにスムーズにいくとは思ってなかったので、テンコは返事すらできなかった。 「テンコちゃん1よくやった! チョロ美《み》との逢引《あいび》きを阻止した!」 「あははは! あんた、なかなかやるね! だったらもう一押しだ!」 「……ゴハン」  もちろんこれは、食卓に座ったまま発せられる三人の声である。居間とキッチンは繋《つな》がっているので、一連の行為は丸見えなのである。 「う、うんっ。え、えーと、佐間太郎! 待って!」  彼女は慌《あわ》てて彼を追って二階へと向かった。  そして、三人は思うのだ。ゴハン、いつかな、と。 「佐間太郎、入るね」  テンコは丁寧にノックをした後、そう言って彼の部屋へと入った。佐間太郎はベッドに寝転がって、ボケーと天井を眺めている。 「あのね、佐間太郎《さまたろう》。無理言ってごめんね。だけどその、どうしても行って欲しくなかったの」 「うん。だからここにいるんじゃん」 「あはは1そ、そうだね! そうだね!」 「そんかしさ、さっき言いかけたこと、最後まで言ってみて」 「え?」 「嘘《うそ》言うなよ。本当に、さっきの言葉の続き。言ってみ」  テンコはどうっすかなー、言うべかなー、言わんべかなーと迷っていたが、ええい、ままよ! とばかりに叫《さけ》んだ。 「実は久美子《くみこ》さんは悪魔だったのです!」  唐突だ。余りにも唐突だ。それでは信じてもらえるわけがない。 「ふーん……。それで?」  予想通り彼の反応は薄い。 「もー! なんで信じてくれないの! 人が真面目《まじめ》に話してるってのに!」 「んなアホな話、信じられるわけねえだろ! 悪魔P久美子さんが悪魔?」 「だってそうなんだもん! そうなんだからしかたないじゃない! あたしだって人の悪口なんて言いたくないしさ1悪口かどうかもわかんないしさ!」 「……わかったわかった、それじゃあさ、一緒に行こう、久美子さんち」  いきなりの提案に、テンコは飛び上がって驚いた。 「それで解決するだろ? 久美子さんの家にはおばさんしかいないこととか、彼女が悪魔なんかじゃないってことが。お前の言ってることが、嘘かどうかハッキリさせようぜ」 「う、うん……」 「それなら今から連絡入れるからさ。うんうん」  こうしてテンコは、佐間太郎と一緒に久美子の家に行くことになったのだった。  学校の裏手にある住宅地。その中にひっそりと立っている木造のアパート。  二人は久美子の家のドアの前にいた。 「じやあ、インターフォン押すからな」 「う、うん……」  テンコの頭の中では、あの凶悪なフミコがドアを蹴破って出てくるイメージしかないので、佐間太郎の背後にそっと隠れる。  キンコン、という音が鳴ると、足音が聞こえてすぐに久美子が出てきた。 「おはよう。今、お母さんが眠ってるから静かにしてくださいね」 「うん、わかったよ」  彼女に案内され、二人は台所を抜け、和室へと通された。そこは六畳ほどの広さしかなく、二人でこの一間に住んでいるのかと思うと切なくなった。  小さなテレビが朝のニユースを映している。東京のとある工場が朝方に原因不明の爆発事故を起こし、今もなお出火中ということだ。  テレビの前には小さなテーブルが置いてあり、二人は座布団の上に座る。部屋の隅には彼女の母親が寝息を立てていた。 「お母さん、疲れてる時は目を覚まさないんです。昨日は……ううん、なんでもない」  久美子《くみこ》はそう言って、神経質そうに髪の毛をかきあげた。その顔に、昨晩テンコが見た悪魔の表情はない。 『ほらな、ここにはおばさんしかいないだろ?』 『う、うん……』  何気ない顔をしつつ、佐間太郎《さまたろう》はテンコに声を飛ばす。確かにこの狭い部屋に、誰《だれ》かが隠れている様子はない。 「ごめんなさい、狭くて。お母さんが、ここを気に入っちゃって。二人で住むんだから、広くなくてもいいだうって言うんです。わたしは、もうちょっと広い方がいいんですけどね」 「そうなんだ。うん、シブくていいと思うよ。あははは。な、テンコ」 「え? そ、そうね。シブいわね。おほほほほ」  そんなわざとらしい会話をした後、ズズッと久美子の出した麦茶をすする。 「よし、それじゃ学校行こうか」  そう言って佐間太郎が立ち上がった。さすがにいたたまれなくなったのだろう。  こうして、たった数分の家庭訪問は終了した。  久美子と共に佐間太郎とテンコは、いつもとは違う道を通って学校に向かう。  すぐに学校に到着したが、彼はアッと思い出したように言った。 「ごめん、もしかしたら進一《しんいち》が坂道で待ってるかもしれないから、一声かけてくる」  そう言うと、二人を校門に置いて行ってしまった。残されたテンコと久美子は、えへへと不自然に笑う。なんとなく、居心地が悪いのだ。 「そうだ、テンコさん。昨日のお月様見ました?」 「え? う、うん……」  テンコの頭の中に、月夜をバックに大きなカマを持った彼女の姿が浮かぶ。  いや、しかしあれは夢だったと言うではないか。今もこうして話していても、久美子におかしい様子はない。それにしても、彼女の家で見たフミコは誰なのだろう。  やっぱり、近所のハッスル泥酔OLかなんかが勝手に上がりこんでいたのだろうか。 「きれいでしたよね。お月様……」  久美子《くみこ》はそう言って空を見上げる。空には、薄っすらと月が出ていた。青空に灰色の月が浮かんでいるというのは、妙なものだ。しかし、いつだって月は空に存在している。  見えたり見えなかったりするが、なくなったりはしないのだ。どんな時だって。 「あのさ、久美子さん。変なこと聞いていい?」 「はいっ? なんですか?」 「久美子さんて、悪魔……じゃないよね?」 「えっ?」  彼女は心底驚いた顔をした。この人、なにを言っているのだろう。  テンコは慌《あわ》ててその発言を撤回しようとする。そうか、やっぱり夢だったのだ。そんなはずないじゃないの。 「テンコさん、なにを言ってるんですか?」 「いや、あはは、なんでもないのです。その、ええと、なんでもない」 「昨日の夜、お会いしたじゃないですか」  テンコの背筋に、冷たい汗が流れる。今、彼女は、なんと言ったのだ? 「え? えと、その、今、なんて? ごめん、聞き違いかも知れないから……」 「だから〜」  久美子がニコッと笑うのと同時に、スカートの中から黒い尻尾《しつぼ》がストンと地面に垂れ下がった。 「昨日の夜、お会いしたじゃないですか、って言ったんですよ?」  彼女の目が、水の中に絵の具を落としたみたいに、徐々に赤く染まっていった。 「進一《しんいち》〜っ」 「どわ1ビックリした! むしろ、あっと驚くタメゴロー!」  いつもとは逆の方向から出現した佐間太郎《さまたろう》に、愛《あい》との会話に夢中になっていた進一は大げさに驚いた。あと、ギャグが古い。 「今日は久美子さんの家から来たから、こっちなんだ」 「マジでーなにそれ、朝帰りってこと? スゲエなあ、愛ちゃん聞いた? 爆弾発言ですよ今の。トップニュース決定」 「そうじゃなくて、テンコと一緒に彼女んちに行ってたの」 「そうなんだ……。なんだよ、損したよ.驚いて。俺《おれ》の損を返してくれ」 「うるせ乙享愛が、チョイチョイと進一の制服の裾を引っ張る。彼はなにかを思い出したように話題…を変えた。 「そうだ佐間太郎《さまたろう》。お前、知ってるか? 今朝のニュース」 「え? なに? ああ、どっかの工場が爆発したっていう……」 「違うよ! そうじゃなくて、うちの学校のニュース」 「知らない。なんかあったの?」 「うちのクラスの男子と女子が、自殺未遂したんだよ」  佐間太郎は、心臓をキュッと掴《つか》まれるような痛みを感じた。十代の自殺未遂は、今の時代では珍しいことではない。しかし、それが同じ学校の、同じクラスということにリアルさを感じる。 「しかもその二人、昨日学校に来なかった二人なんだよ」  真面目《まじめ》な調子で進一《しんいち》は言う。佐間太郎とテンコ、そして久美子《くみこ》を除くクラスの全員が悪夢を見て学校に遅刻した。その中で、二人だけが最後まで登校することはなかった。  その二人が、揃《そろ》って自殺未遂だなんて、絶対になにかがあるに決まっている。 「なんだよそれ。そんなことあるのかよ」 「怖いですよね。進一くんから夢の話、聞きましたよ」  黙っていた愛《あい》が口を開いた。彼女は隣のクラスなので、悪夢は見なかったらしい。 「絶対にその夢が関係してますよ。だって、女の子が生きる意味を問いかけてきたんでしょう? それから、こっちにおいでって。それって、まるで死神に手招きされてるみたいじゃないですか……」 「う、うん」  佐間太郎は、どう返事をすればいいのかわからなかった。 「わたしもね、遠い昔に、そんな夢を見た気がするんです。女の子に、こっちにおいでって呼ばれる夢。だけど、あんまり覚えてなくて……」 「そうなんだ」 「わたしが見た夢も、その悪夢と一緒なんです。赤い服の女の子が声をかけてくるんです。凄《すご》く怖かった」  彼女はその時のことを思い出して、身震いする。 「そう言えばさ、久美子ちゃんて、デートの時に赤い服着てたよな」  進一は何気なく眩《つぶや》いた。彼が言っているのは、夏に佐間太郎、テンコ、進一、久美子でプールに行った時のことだ。確かに、あの時彼女は赤いワンピースにビーチサンダルをはいていた。 「俺《おれ》の夢に出てきた女の子、思い返せば思い返すほど、久美子ちゃんにソックリなんだよなあ……。でも、それってただ単に俺が久美子ちゃんのこと気になってるから出てきたの[かと思ってたんだけどさ。まあ、ただの偶然だよな」  〜愛は進一の言葉に、不機嫌な顔になる。  それを見て、彼は慌《あわ》てて話題を逸《そ》らそうとした。 「あはは1それにしても、天気いいな今日は! ね〜、佐間太郎《さまたろう》ちゃん?」 「赤いワンピース……久美子《くみこ》さん……」 「だから、あえて避けたんだうが、その話題! なんで蒸し返すの!」 「進一《しんいち》くん、絶交です1」  そう愛《あい》は叫《さけ》ぶと、怒ってトストスと学校の方へ歩いていってしまった。 「わあああ、愛ちゃん! おい佐間太郎! これが原因で別れたりしたら、お前のせいだからな!」  彼は慌てて愛を追って走り出すが、佐間太郎は返事をすることさえできなかった。 「もしかしてテンコのやつ、嘘《うそ》じゃなかったのかP…」  身を翻《ひるがえ》し、彼は全力で校門へ向かって走り出す。途中で進一と愛を追い越し、カバンを放り投げ、一秒でも早くと力を込めた。  佐間太郎は自分を責める。どうして昨日、彼女の言ったことを信じてやることができなかったのだろうか。そのせいでテンコを危険な目に晒《曳、ら》してしまったのだ。自分のせいで、大切な人を失ってしまうかもしれない。その時、彼はハッキリと自覚した。  自分にとって大切なのは、テンコなのだ。久美子ではなく、テンコだったのだ。 「テンコ!」  しかし、そこに二人の姿は見当たらなかった。慌てて進一と愛が追いかけてくる。 「おい、どうしたんだよ佐間太郎。さっきの冗談だから。別れたりしないから」 「そうですよ。進一くんが女好きっていうの、知ってて仲良くしてるんですからね。付き合ってはいないけど」 「付き合ってないのP」 「ないですよ?」 「うわーん1」  二人は本気なのか冗談なのか、そんなことを言い合っている。だが、佐間太郎の耳には声は届かない。頭の中は、テンコのことでいっぱいだ。  どうして俺《おれ》は彼女の言うことを信じてやれなかったのだろう。なんでこんなことになってしまったのだろう。 「進一……愛ちゃん……俺、テンコを……テンコが……」 「を? が? どっち?」  事情を知らない進一は、頭をボリボリとかきながら聞いてくる。 「そういう問題じゃないだろ!」 「じやあどういう問題だよ! 全然わかんねえよ!」  佐間太郎は進一に掴《つか》みかかりたかった。しかし、そんなことをしてもなんの解決にもならない。今は、一刻も早くテンコを探し出さなくてはならないのだ。 『佐間太郎《さまたろう》〜。こっちこっち〜」  不意に、テンコの声が頭に響いた。驚いて周囲を見渡しても、彼女の姿はない。 『上だってば……』  校舎の窓を見上げると、三階の窓際でテンコが手を振っていた。 『久美子《くみこ》さんと一緒に、先に教室きちゃったよ? 早くおいで』 「で、テンコちゃんがどうしたって?」  進一《しんいち》は呆然《ほうぜん》としている佐問太郎に向かって、そう言った。  佐間太郎は、なんと言っていいのかわからず、テンコの心に向かって怒鳴りつける。 『お前1アホだろ!』 『なにそれ! あんただってアホでしょ!』 『ああ、俺《おれ》だってアホだよ! だけどお前もアホだ!』  なんと無意味なやり取りだろう。ともかく、佐間太郎は安心して涙が込みあげてくるのを感じていた。  教室に行くと、佐間太郎の席に久美子が座り、なにやらテンコと話していた。その姿は、とても天使と悪魔のツーショットには見えない。どう考えても、ただの女子高生のおしゃべりである。彼はホッとしながら、おはようと挨拶《あいさつ》した。 「あーもう、遅い。校門でイキナリ泣き出すから、なにかと思ったよ」 「うるせえ。俺の方がなにかと思った。お前の言った妄想《もうそう》が……」  本当だったのかと思ったよ。そう続けようとしたが、隣に久美子が座っていたので止《や》めた。なにも彼女を傷つけるようなことを言う必要はない。 「あ、そうだ神山《かみやま》くん。後で大事なお話があるの。だから、保健室に来てください」 「え? あ、うん。わかった。俺も大事な話があるから」  佐間太郎は、テンコをチラッと横目で見た。しかし、彼女は窓の外を見ながら 「あ、ヘリコプターだ。わーい」と言って手を振っている。子供か。  しばらくしてチャイムが鳴り、教師が入ってきた。彼は 「え! 、今日は二人欠席だ」とだけ言って、そのまま出席を取り始めた。自殺未遂の話はクラスメイト中に広まっていたが、学校側はそれを発表することはなかった。  きつと、誰《だれ》かがそのことについて聞いたとしても、知らぬ存ぜぬで通すだろう。  そういうもんなんだ、学校って。  放課後になると、久美子は佐間太郎の席にやってきて 「保健室ですよ?」とだけ言って去っていった。テンコはそのことについてなにも言わず、ずっと窓の外を見ていた。 「なあテンコ」 「うんっ?」 「ちょっと久美子《くみこ》さんのとこ行ってくるな」 「行ってくれば? なんでわざわざ言うの?」 「なんとなく」 「変なやつ」  彼は簡単なやりとりを彼女と済ますと、カバンを置いたまま保健室へと向かった。 「あ、神山《かみやま》くん。ありがとう、わざわざ来てくれて」 「うん、まあね。それで、言いたいことってなに?」 「神山くんも言うことあるんすよね? 先に言ってください」  佐間太郎《さまたろう》は 「いえいえ久美子さんこそ」と言おうと思ったが、そうすると無限ループに陥《おちい》ると思って先に話すことにした。それに、この話題は彼女にとって早くしたほうがいいと感じたのだ。 「別れて欲しいんだけど……」  久美子の顔から、表情がスッと消えた。とても冷たい、醒《尽、》めた顔になる。 「なんでですか? どうして?」 「あの。さつきね、ちょっとした勘違いがあったんだけどさ。その時に、なんて言うか、テンコのことが気になったんだよね」 「テンコさんが?」 「うんそう。ほら、前に久美子さんが、わたしのことだけ考えてって言ったじゃん? だから、久美子さんのことだけ考えようと思ってたんだけど、どうしてもね、あいつのことが頭から離れないんだ」  彼女は室内にある、ベッドの上に腰掛けた。消毒液の香りが、風に乗ってやってくる。 「好きなんですか? テンコさんのこと」 「いや……。ハッキリ言って、よくわかんないんだよね。あんまりにも長く一緒に居すぎて、そういう感情を持てなくてさ。それに、あいつも俺《おれ》のことそんな目で見てないと思うんだけどなあ。ハッキリしなくて悪いんだけど。でもね、こういう状態で久美子さんと付き合ってるのって、ダメだと思うんだよね。だから、別れてください。お願いします」  佐間太郎はそう言って頭をペコリと下げた。それを見て、久美子はおかしそうに笑う。  さっきの冷たい表情は、もうどこかに消えていた。 「そっか。そういうことなんですね。わかりました。それならしかたないです。いいなあテンコさん、そんなに神山くんに想《おも》われて……」 「いや、想うとかじゃなくてね。まあいいや。んで、久美子さんの話ってなに?」 「ああ。そっか。そうですね。わたしのお話もしなくちゃ。ええと、すごくぶしつけなんですけど……」  久美子《くみこ》は真《ま》っ直《す》ぐに佐間太郎《さまたろう》の目を見た。彼も、なにかとても大切なことを話すのだなと視線を逸《ぞ》らさずに見つめ返す。 「わたしを助けて欲しいんです。神山《かみやま》くんに」 「助ける? それって、どういうこと?」 「神様の息子である神山佐間太郎くんに、悪魔の娘である小森《こもり》久美子を助けてもらいたいのです」  彼女は、真面目《まじめ》な調子でハッキリとそう言った。  神様の息子である神山佐間太郎。  悪魔の娘である小森久美子。 「だああああ! 俺《おれ》が神様の息子ってバレてるし! それに、久美子さんて、やっぱ悪魔なのー9」 「はい。わたしの母親は悪魔です。そして、わたしはその娘。だから、悪魔です。中学生までは無自覚に生きていたのですが、最近になってお母さんはわたしに跡継ぎをさせようとして……」  彼女の目は次第に赤く変色していく。 「お母さんが悪魔って知らなかったんです。ある日、お母さんはわたしに告白しました。久美子、お母さんは人の命を吸い込んで元気になっているんだよって。最初、どういうことかわからなかった。その日からお母さんは、毎日一歳ずつ年を取っていきました。大好き礎ったお母さんが、どんどん年老いていくんです。肌はシワだらけになって、髪の毛は白髪《しらカ》交じりになって。なんだかお母さんが他《ほか》の人になっちゃうみたいで怖かった。どうすればいいのってわたしは聞きました。そうしたら、識でもいいから夢の中に入ってごらん・そして、こっちにおいでと誘ってごらんって言うんです。わたしは、言われるままに従いました」  いつの間にか、久美子の瞳《ひとみ》は真紅に染まっていた。 「夢の中の世界で指示どおりにすると、心の弱い人間がこっちに向かってくるのがわかるんです。彼らの魂は夢から抜けて、ゆっくりと道路すれすれの位置で浮かんでいます。魂って言っても、フワフワしたものじゃないんですよ。その人の、一番大切なものの形に見えるんです。例えばオモチャだったり、ヌイグルミだったり、バイクだったり、友達だったり、恋人だったり、なんでもです。わたしは母親から貰《もら》ったヵマで、草を刈るみたいに、それを地面から引き剥《は》がすんです。そうすると、たくさん血が出て、魂はこの世から隔離します。お母さんはその魂を摂取した途端、若返りました。なるほど、こうしていればお母さんはいつまでも元気でいられるのか、そう思ったんです」  真っ白い彼女の頬《ほお》の上を、一滴の血が滑り落ちた。もしそれが透明な液体だとしたら、涙と呼ばれているものだ。 「それで、どうしたの?」  佐間太郎《さまたろう》は彼女の横に座って、手をシッカリと握り締める。 「そんなことを繰り返している内に、わたしは嫌になったんです。大好きなお母さんを助けてあげたいけど、こんなの酷《ひど》いって。普通じゃないって思ったんです。そしたらお母さんは、じゃあ最後に神山《かみやま》くんの魂を持ってきてくれたら、それでおしまいにしようって言ったんです。神様の息子が人間界で修行をしているらしい。それぐらい強力な魂があれば、もう人間の魂なんて必要ないって言うんです」 「俺《おれ》の魂?」 「はい。夏に会った時がそれです。わたしはお母さんの仕組みによって、神様の息子がいるというこの学校にやってきました。そして、神山くんに接触しました。最初は神様の奇跡を弾《はじ》いていたんですけど、奇跡が利《き》いてるようにしたほうが、上手《うま》くいくかなって、騙《だま》された振りをしてました。だけどね、だんだん、本当にあなたのことが好きになってしまったんです」  佐間太郎は、なんと答えていいかわからなかった。 「あなたは必死に生きようとして、一生懸命自分の世界を取り戻そうとした。わたしが奪った大切なものを、一度に引き戻したんです。すごい、いいなって思いました。この人には勝てないなって。それで、引っ越す振りをして、ずっとこの町に隠れてたんです」  彼にとっては、驚きの連続だった。自分の知らないところで、そんなふうに世界が動いていたなんて。 「お母さんにも言いました。わたし、もうダメだって。こんなことはできませんって。最初はしかたないねって言ってたんですけど、すぐにもう帰度行ってこいってことになって。それで、戻ってきました」 「じゃあ、俺と付き合おうってイキナリ言い出したのも、そのせい?」 「はい」 「そうなんかい……」 「最初は、作戦でした。だけどね、やっぱり本当にあなたのことが好きだったんです。だから、デートしてても楽しかったし、手を繋《つな》ぐとドキドキしました。だけど、振られちゃいましたね」  真っ赤な目をしながら、彼女は笑った。それは、とても悲しい笑顔だった。 「だけどもうダメです。昨日の夜ね、クラスメイトの魂を奪いに行った時、失敗しちゃつたんです。こんなの嫌だって思ったから、魂が完全な状態で奪えなかった」  久美子《くみこ》は、自殺未遂をした生徒のことを言っているのだろう。もしその行為が完全に成功していたら、あの二人はもうこの世にいないことになる。 「それをテンコさんにも見られちゃって。朝もね、その話をしてたんです。ごめんなさいテンコさん、わたしから神山《かみやま》くんに話すから、それまで内緒にしててねって」  佐間太郎《さまたろう》が進一《しんいち》と話している時に、二人はそんな約束事をしていたのだ。 「でもごめんなさい。大変な時期なのに、こんなお願いしちゃって」  久美子《くみこ》は、真っ赤な涙を手の甲で拭《ぬぐ》って言った。 「なにが? 大変て? 別に、俺《おれ》、いつも暇だし」 「だって、テンコさん天国に帰っちゃうんでしょう? そんな時にこんなこと」 「え? 今、なんて?」  彼女は、しまったという顔をする。 「まだ、聞いてなかったんですか? テンコさんが、天国に戻っちゃうってお話……」 「聞いてねえし。おかしくねえ? そんな大事なこと、なんで俺に言ってないの」 「ごめんなさい……わたし、てっきり。言い出せないんじゃないですか?」 「あのアホ……。やっぱりアホだ」  佐間太郎は窓の外に何気なく目を向けた。まったく、ややこしいなあ、と。  しかし、窓の外はもっとややこしいことになっていた。 「久美子さん、神山佐間太郎、あなたを押し倒します!」 「え19”ちょ、なー7」  彼はベッドの上に久美子を強引に押し倒した。次の瞬間、保健室の窓ガラスが一斉に吹き飛ぶ。ガラスは細かい破片になって、そこら中に散らばった。 「久美子ちゃ〜ん。ダメじゃないの、そっちに行ったら……」  低い声が、耳鳴りの向こうに聞こえてくる。佐間太郎が声の方を見ると、そこには見知らぬ女性が立っていた。 「あんた……誰?」  その答えを出したのは、久美子だった。 「お母さん……なんでここに17…」 「はP…お母さんP”だって、久美子さんのおばさんって……」  フミコはなにがおかしいのか、ニタニタと笑いながら二人に近づいてくる。キャミソールにジーンズ、そして大きなカマ。 「クラスメイト全員に悪夢を見せました。はい、それであたし、若返りましたー。魂はなかったけど、あの大量の悪夢はいい栄養になったね。そんで、クラスメイトの自殺未遂。これもまあ、オヤツ程度にはなりましたー。そのパワーを使って近所の工場を爆破しましたー」 「それで、もう力はなくなったんじゃなかったの? だから今朝、ずっと眠ってたんじやなかったの19」 「バカだね。んなわけないでしょ。そもそも、力を使ったって年老いたりしないって。あれは全部、あんたを立派な悪魔にするためのお芝居じゃない。久美子《くみこ》ちゃんてば情に弱いからね。あたしが弱ってれば嫌でも悪魔になってくれると思ったんだけどね……。神に寝返るなんて、見込み違いだね」 「酷《ひど》い! ずっとわたしのこと騙《だま》してたのp」  フミコはカマで保健室の机をスパッと切り裂いた。そのデモンストレーションは、彼女の強力な力を誇示《ニじ》している。真っ二つになった机は、ゆっくりと床に崩れ落ちた。 「あはは、騙しちゃってたね。ごめんよお〜、あたし悪魔だからさ。ともかくね、久美子ちゃん。あんたは、娘も悪魔も失格。楽して神様の息子の魂が頂けると思ったんだけど、無理だね。あたしが直々に料理しなくちゃね」  佐間太郎《さまたろう》は、久美子をかばうように一歩前に出る。  それを見たフミコは、フンと鼻で笑った。 「なに? あたしに逆らおうっての? なんの力もないガキのくせに」 「うるさい。帰れ」 「なにそれ? 脅しのつもり?」 「マッハで帰れ、マッハで」 「あはははは。笑っちゃうね。かわいいね、ぽうや……」  フミコの瞳《ひとみ》がドス黒く変色していく。久美子の赤とは違う、もっと異様な色だ。 「神山《かみやま》くん、逃げて」  不安そうに眩《つぶや》く久美子《くみこ》に、佐間太郎《さまたろう》はビシッと言った。 「大丈夫。俺《おれ》、神様の息子だから。人を救うのが仕事。だと思うよ?」  あんまりビシッとしてなかったが、彼にしてはよく言ったほうである。 「あー! そういうの嫌い。ウザいしキモいし気分悪い。だから死んで?」  フミコはそう言って、カマを勢いよく振り上げた。たったそれだけの動きなのに、激しい風圧が起こり、佐間太郎は保健室の壁に叩《たた》きつけられる。 「いってええええ! 超いてええよ!」  彼は、普段味わうことのない痛みを全身に覚え、悲鳴を上げた。 「あはははは。神山くん、痛いでしょ? これが痛み。このカマは、あんたみたいな特殊なやつに対しても効果があるのよん。だって、人間の憎しみとか、悲しみでできてるんだもん。これで切れば、あんたも真っ二つになるよ?」 「そうか……。よし、逃げよう」  作戦変更である。佐間太郎は、アッサリと言った。 「逃がすかっ1」  フミコは二三歩前に踏み出し、そのままジャンプした。天井すれすれの高さまで跳《ま》ね上がり、そのまま彼に突っ込む。 「おわああああ! デンジャー! デンジヤー!」  佐間太郎は久美子を抱きかかえ、力の限り飛びのいた。さっきまで二人が座っていたベッドは、フミコのカマによって真っ二つに切り裂かれる。  鉄パイプで出来ているはずのベッドは、いとも簡単に破壊されてしまった。今度は自分の番かも知れない。そう思うと、こめかみがビクビクと震える。  とりあえず腰を抜かしたまま、サササと壁際まで移動。フー。 「神山くん、フットワ:クはいいね。でも、久美子と一緒にどこまで逃げ切れるかな?」  フミコは、そう言ってカマの刃を真っ赤な舌でペロリと舐《な》めた。実際に見るともの凄《すご》い異様な仕草である。恐ろしい。 「佐間太郎! どうしたのー7」  保健室のドアが大きな音を立てて開き、テンコが現れた。 『やべえ! 来んな1逃げろ!』 「えっp”」  心の声を送ったが、遅かったようだ。フミコはテンコに向かってカマを振り上げる。 「テンコちゃん。この前はどうもでしたーん」 「うっは! あんた、フミコ!」 「そう、あたしフミコ。ところで、風圧で死ぬってどんな気分だと思う?」  彼女は、標的をテンコに絞った。混乱したままのテンコに、さっきのような攻撃を避けることはできないだろう。だとしたら、完全に終わりだ。 「逃げろテンコ! さっさと逃げろボケェ!」 「なによボケって! あんただってボケでしょ!」  壁にもたれながら、佐間太郎《さまたろう》は大声で叫《さけ》ぶ。本当なら駆け寄りたいが、体が痺《しぴ》れて一歩も動けない。 「神山《かみやま》くん、愛する人が死ぬ気分、味わっちゃおうか?」 「愛してねえよ!」 「なによ、佐間太郎! あた、あた、あたしだって愛してないわよ!」  妙な叫び声が連続する中、フミコはテンコに向かってゆっくりとウインクをした。 「バイビー」  そして、全身の力を込めてカマを振り下ろす。 「待てフーさん!」 「はっP」  突然の声に、彼女はコントロールを乱した。それでもカマから発生した突風は、テンコの横の壁をゴッソリとえぐる。 「ガビーン! なにこれ! 破壊!」  驚いたテンコは持っていたカバンを放り投げると、佐間太郎の方へとへっぴり腰で逃げてきた。 「バカ! こっち来んな! あっち逃げろ!」 「うわーん! だって怖いんだもん1」  座り込んでいる佐間太郎に、テンコはガッツリと抱きつく。フミコは、舌打ちをしてカマの先を力いっぱい床に叩《たた》きつけた。ディスイズアクマ〜。 「なによなによ、大人数じゃないの。寄ってたかってあたしをイジメようっての? 神様らしくないね、卑怯《ひきよう》だね。それにさっきの声、スーさんでしょ?」  スーさんて誰《だれ》? 佐間太郎と久美子《くみこ》だけではなく、テンコさえ思った。 「うむ。お前の動きは相変わらず美しいな……」  そう言ったのは、テンコが放り投げたカバンだった。 「どわああああ! カバンが喋《しやべ》った!」  佐間太郎は驚いてテンコを抱きしめる。つうか、他《ほか》のことで驚け。 「カバンではない! わたしは、スグルだっ!」  カバンは空中に浮き上がると、ブタの貯金箱をドバーン! と吐き出す。 「どわああああ! ブタが喋った!」 「だからブタではない! スグルだ!」 「どわああああ1スグル藍嚇.つた!」 「そうだ、それでよろしい!」  なんだか佐間太郎《さまたろう》ってば、雰囲気だけで驚いている気がするのだが……。 「久しぶりだな、フーさん」 「うふふ。そうね、スーさん。何年ぶりかしらね。百年ぐらい?」 「あるいは、そうかもしれないな」  おいおい、なにそれ、パーティージョーク? それとも本気? 「しかたない。スーさんに免じて、ここは退散することにしましょう。でも神山《かみやま》くんにテンコちゃんに久美子《くみこ》ちゃん。今度会った時は、殺すからね」  フミコはそう言うと、ゆっくりとした足取りで外に向かって歩き出した。 「なんでブタが喋ってんだよ1ねえ、テンコってば、ねえ?」 「知らないわよ! 知ってるけど知らないわよ1」  佐間太郎とテンコは、ブルブルと震えながら言い合いをしている。フミコはクルッとダンスでもするように振り返ると、挨拶《あいさつ》をするみたいに言った。 「あ、これ、オミヤゲ」  彼女は、カマを軽く振り上げて、そのまま真下に振り下ろす。  小さな突風が、鋭利な刃物になって保健室に中に飛び込んできた。 「きゃあああああ!」  その風は、テンコの腕に大きな傷を作った。弾《はじ》かれるように壁に叩《たた》きつけられた彼女は、真っ赤な血を噴き出して床に倒れこむ。 「テンコ1」  痛む体を無理やり起こし、佐間太郎はテンコの元へと向かった。  彼女の腕からは、止まることなく鮮血が溢《あふ》れだす。 「おわあああ! 血だよ! 血1大丈夫かP」  テンコは、激痛を感じているはずだった。それなのに、歪《ゆが》んだ笑顔を無理に作る。 「あはは。大丈夫、かすり傷だから」 「どこが! 直撃じゃないか! あいつ、ぶっ殺してやる1」  佐間太郎は窓の方を見た。しかし、そこにフミコの姿はなかった。 「ごめんなさい、わたしのせいで……」  どうしていいのかわからず、久美子が泣き出す。スグルはブヒブヒと言いながら、テンコの上をグルグル旋回した。 「くっそ。とりあえずテンコを家に運ぶ。スグル、久美子さん、手伝って」  彼はそう言うと、テンコを背負って歩き出した。二人(一人と一個)は、オロオロしながら佐間太郎《さまたろう》の後に続いた。 「もう、佐間太郎ってば大げさ。これぐらい普通だってば」  耳元で、苦しそうなテンコの声が聞こえる。 「なにが普通なんだよ。全然普通じゃねえよ。どうせ医者行っても治してもらえないんだろ。帰るぞ、家に」 「いいよ、迷惑かけるから……」 「うるせえ。帰るんだからな、お前の家に」 「あたしの家……」  どうしてか、テンコは泣きそうになった。傷が痛いからなのか、佐間太郎が優しいからなのか、それとも他《ほか》の理由なのかわからない。ただ、一度流れ始めた涙は、神山《かみやま》家についてもしばらくは止まることがなかった。 「きゃー! テンコちゃんが血まみれ! ブタが飛んでる! あとチョロ美《み》がいる!」  ママさんは玄関のドアを開けた瞬間、悲鳴を上げた。 「なにP”どういうこと、なんなのP美佐《みさ》ちゃーん! メメちゃーん! スリッパ用意してー! お客さんだからー! あとお茶1!」  彼女もパニックになったのか、慌《あわ》ててわけのわからないことを叫《さナ》んでいる。もしかしたら素かもしれない。恐ろしいことだが。 「オフクロ、ごめん。今ちょっとマジだから、どいて」 「はいっ」  ママさんは短く素直に返事をすると、サッと身を引いた。佐間太郎はテンコを背負ったまま、自分の部屋に向かった。あまりに真剣な表情に、誰《だれ》もが後を追いかけることはできない。  佐間太郎はベッドにテンコを寝かせると、制服を破いて傷口を見る。見てもわからないけど、見る。だいぶえらいことになってんなーと思いながら見る。 「テンコ、大丈夫か?」  顔中に冷や汗をかいた彼女は、なんとか、声を出そうとした。 「うん……しないでね……」 「しねえよ! 脱がしたわけじゃねえぞ、エロ的なあれで制服をあれしたあれじゃないからな!」 「あはは。違うよ、心配しないで、って言ったの」 「すまん」 「あーあ。シーツ、血だらけ…・:。こういう……汚れ、落ちないんだよね……」  洗濯は彼女の仕事である。こんな時にでも、そんな心配をしてしまうのだ。 「気にすんなよ。それより自分の心配しろ」 「だって……洗うの、あたしだもん」 「いいよ、これは俺《おれ》が洗う。これだけな、これだけ」 「うふ。ありがとう……やさしー」 「他《ほか》はお前が洗え。元気になって、元気に洗え」 「うん、わかった」  テンコの腕からは、途切れることなく血が溢《あふ》れ出している。こんなに出血したら、いくら天使でも死んでしまうのではないだろうか。 「もー。佐間太郎《さまたろう》、悲しい顔しないで」  思っていることが顔に出たのか、彼女はそう言ってケガをしていない方の手で佐間太郎の頬《ほお》を撫《な》でた。 「あたし、死んじゃうみたいじゃん。ばか」 「ばかはお前だろ! 逃走経路考えろよ! こっちくんなよ!」 「うん、あたし、バカだったね。ごめんね。だって、佐間太郎の近くに行きたかったんだもん」  素直にバカって認めるなよ。それ禁止だよ。なんか泣けてくるじゃねえか。気弱なテンコは、テンコらしくねえよ。 「え? なに言ってるか……わかんないよ。……なんで泣いてんの?」  泣いてねえよマジで。 「花粉症だからね。鼻と涙が出るのさ」 「ああ、知ってる。九月の花粉症ってやつでしょう? あたしもそうだから、涙、また出てきちゃう」  うっすらとテンコの瞳《ひとみ》に涙が溜《た》まる。 「テンコ。聞いてくれるか? いや、返事はいらねえから聞いてくれ。俺、久美子《くみこ》さんと別れた。誰《だれ》が大事かって考えたら、お前のことが頭に浮かんだんだ。好きとかじゃねえぞ、それはあれだ、別問題だからな。だけど、なんつうか、こういう気持ちで彼女と付き合ってるのはよくねえって思ったから。だから、ハッキリさせた。そんだけ」  にっこりと笑って、テンコは佐間太郎の頬の上で手を何度か動かした。 「返事しろよ! さっきいらねえって言ったけど、しろよ!」 「……うん」 「もっと元気よく返事しろよ! テンコ1テンコー−・」 「..….……」まばた彼女はゆっくりと瞬きを繰り返すだけで、返事をすることはない。 「 「なんで話《ほ》さないんだよ! 声出せ、腹から! いいや、肘《ひじ》からでもくるぶしからでもい脚いから、声出せよ1返事しろって!」 「………:……:・…・」 「お願いだから返事してください! テンコさん! 神様からのお願い……」  テンコの顔に、佐間太郎《さまたろう》の涙が落ちる。こうしてる間にも、流血は収まらない。 「テンコ! テンコ! なんか言え! なんか!」  ゆっくりと彼女の瞳《ひとみ》が閉じる。佐間太郎の頬《ほお》を撫《な》でていた指先から力が抜けて、ベッドの上にボスンと落ちた。 「おわあああああ! テンコ! 死ぬな! 死ぬんじゃねえよ1」 「死なないっての」  ガコン、と佐間太郎の頭に衝撃が走った。振り返ると、ママさんがナース姿で立っている。なぜナース? なぜ突然のゲンコ? 「あのね、天使はこれぐらいじゃ死なないの。人間だって死なない。意外としぶといんだからね、命ってやつはさ。わかったら佐間太郎ちゃんは廊下へと行くのです」 「オフクロ、助かるのかよ、こいつ、大丈夫なのかよ」 「えっへん。ママさんは今はナースなので助けるのが仕事なのです。だから出てってちょーだい。ほらほら、ここからは女の子だけの時間です」  佐間太郎は涙を拭《ぬぐ》って立ち上がった。 「女神の吐息で治せんの? こういうのも?」 「バカねー。違うわよ」  ママさんはテンコをそっと抱きしめる。 「これはね、女神の吐息じゃないの。母親の愛、って言うの」  佐間太郎は、ゆっくりとドアを閉めて、一階へと向かった。 「はい。第一回、久美子《くみこ》さんはどうなってんの会議でーす」  美佐《みさ》が言うと、メメと久美子がペチペチと小さく拍手をする。  食卓にみんなが座っているのを見て、佐間太郎は涙をゴシゴシと拭《ふ》いた。 「ああ、佐間太郎。お帰り。ママさん、水色がいいかピンクがいいかで悩んでたよ」 「なにが?」 「ナース服」  こんな時でもそんななのか、あの人は。 「んで、今から会議します。はい、ブタもイスに座って。机の上は禁止。お行儀悪いからね。佐間太郎も座るの」  スグルは素直にイスに座った。小さいので、食卓に隠れて全然見えないが、美佐的には.問題ないらしい。 「えーと、ブタはややこしいから今は置いといて、久美子さんについて話します。さて、どうしたもんかね」  美佐《みさ》とメメはウームと捻《うな》った。とりあえずスグルも、ウームと声を出す。久美子《くみこ》は申し訳なさそうに下を向いている。 「はい」  メメが手を挙げた。 「えーと、守る」 「だから、どうやって守るかの会議でしょ? さっきの話によると、相手の悪魔ってばヤバそうじゃない? こんなの初めてだから、美佐ちゃんわかんねーもん。がはは」 「そっか……。うーん」 「オヤジは? オヤジに助けてもらうのが一番なんじゃないの?」  佐間太郎《さまたろう》は目をウサギみたいにして言った。普段なら美佐が 「なにそれ。号泣?」とからかっているところだが、今日は一切冗談は口にしない。 「おー。なるほど、メメ、見てこいっ。ゴッ」 「はいっ」  メメは小さな歩幅でトタトタ歩いていったが、すぐに困った顔をして戻ってきた。 「ダメ」 「ダメ? ダメってなにがダメ?」  美佐は今度は佐間太郎を指差し、それから 「ゴッ」と言った。  見て来い、という意味だけではなく 「さっさと泣き止《や》め」ということでもある。  彼はパパさんの職場である、天国の 「神様の書斎」に通じる場所へと向かった。書斎への入り口は、パパさんとママさんの寝室の中にある。和室のフスマを開けると、まるで粗大ゴ、、、のようにドアだけがポツンと置いてあるのだ。しかし、それを押し開けると、不思議なことに雲の上への通路になっている。佐間太郎は以前、一度だけそのドアを使って天国に行ったことがある。その時と同じように、ドアを押し開けた。  しかし、ドアの向こうは壁であった。ただの、押入れの、壁。 『オヤジッ! オヤジイイイイイ!」  今度は心の声を送ってみる。だが、完全に意識がシャットアウトされているようで、声さえ通じない。  彼は洗面所で顔を洗ってから食卓へ戻る。 「ダメだった。天国へのドアもダメ。心の声も通じない」  佐間太郎がそう言うと、久美子が泣きそうな声で言った。 「あの、たぶん、お母さんが仕組みを使って妨害してるんだと思います……」  美佐は頭をボリボリとかきながら 「なに仕組みって? 奇跡みたいなもん?」とっ晦やいている。かなり焦っているようで、足が小刻みに震えていた。 「すみません、わたしのせいでこんなことになってしまって……」  久美子《くみこ》は深々と頭を下げる。それを見た美佐《みさ》は、ニッコリと笑って言った。 「あー。うんとね、うるせー」 「は……は、はい?」 「謝ってなにか解決すんの? しないでしょ? だったら考えなさい。あんたも頭動かしなさい」 「はい」  しばらくすると、ナース姿のママさんがやってきた。彼女はフーと大きなため息をついて、食卓に着く。 「メメちゃん、ジュースちょーだい。ママさん、お疲れだから」 「うん」  メメはポテポテと歩き、冷蔵庫からジュースを出すと、彼女に差し出す。 「ありがと。で、解決策は出たの?」 「ない。なーんもない。どうしたもんかね」  頭をブンブカと振りながら、美佐はお気楽な口調で言う。ものすごく事態は緊迫しているというのに、このマッタリとした雰囲気はなんなのだろう。 「やっぱりわたし、その、出ていきますっ1」  ガタンッと音を立てて久美子が立ち上がった。切羽詰《せつばつ》まった顔をしている。 「その、わたし、関係ないのに、みなさんにご迷惑かけて、テンコさんにもケガをさせてしまって、だから、悪いのは全部わたしだから、その、帰りますっ」 「はいチョロ美《み》、そこ正座」  ママさんはジュースを一気飲みすると、久美子にそう言った。 「え? せ、正座?」 「じゅーきゅーはーちなーなー」  彼女がカウントダウンを始めると、仕方なく久美子は床に座り込む。佐間太郎《さまたろう》は、おいおいそんなことさせんなよと思うが、なにも言わない。きっと、ママさんにはママさんなりのやり方があるのだろう。 「ええか、チョロ美。わたしは佐間太郎ちゃんに寄り付く女は大嫌い。本当に腹立つ。だけどさ、あんたが困ってるんだったら、助けないわけにはいかないでしょ? テンコちゃ・んがケガしたのはいかんですよ? 怒《ノ》ってるよ、わたしは。だけどさ、あんたがやったわ卵けじゃないんだし。やったのお母さんなんでしょ? じゃあしかたないじゃない」 「でも、その、だからって迷惑をかけるわけには……」 「黙れ、チョロ美っ!」  ママさんはビシッと久美子《くみこ》を指差した。 「ここは神様の家なんだよ? 助けて欲しい人がきたら、誰《だれ》だって助ける。それが悪魔でも、人間でも、なーんでもね。それが神様のおうち。わかった? それに、ここは家族が住んでる家なのよ? あんた、ここに来たでしょ? そこに座ってんでしょ? だったら家族じゃない。うちはね、家族に遠慮はいらないの。佐間太郎《さまたろう》ちゃんも、パパさんも、美佐《さまたろうみ承族じゃない。うちはね�家族に遠慮はいらないの。佐間太郎ちゃんも、パパさんも、望さみ》ちゃんも、メメちゃんも、テンコちゃんも、チョロ美《み》も今日から、みーんな家族。だからブーブー文句言わないの。わかった?」 「は、はい……」  久美子は涙を流していた。家族。ここは、家族の住む家。神様の住む家。 「返事がちっせーよチョロ美!」 「はいっ1」  ママさんは、ニコッと笑って続けた。 「なにか反対意見のある人は?」  美佐は、首をゴキゴキと鳴らしながら答える。 「ない」  メメは、どこを向いているのかわからない顔で答える。 「ない」  佐間太郎《さまたろう》は、久美子《くみこ》を覗《のぞ》き込んで答える。 「なんもない」  ママさんは、パンッと手を叩《たた》くと大きな声で言った。 「はい、今日からチョロ美《み》も家族! さて、どうするか考えましょう!」  その時、誰《だれ》も座っていないはずのイスから声がした。 「あの、わたしも家族でしょうか……」  スグルだ。ママさんは、彼の座っているイスを覗き込んで、少し考えてから答える。 「だってあんた、貯金箱じゃない」  わりに、ハッキリ言う女神なのであった。 「起きてるー?」  佐間太郎は、そう言いながらテンコの寝ている自室へと戻った。  彼女は寝そべったまま、ゆっくりと目を開ける。さっきよりも顔色が良くなっているし、傷口も完全に塞《ふさ》がっていた。さすが女神、さすが母親だ。 「佐間太郎……」 「あー、いいから、起きなくていいから起きなくて」  彼は小走りでベッドに近づくと、力なく宙に浮いたテンコの手を握り締めた。 「あ〜、疲れた。会議長すぎ。長くやればいいってもんじゃねえのになあ……」 「会議? なんの会議?」 「え? これからどうするか会議。まあ、お前は心配することないって」  なんとか身を起こそうとするテンコを、佐間太郎はなだめすかす。 「はいはい、病人は寝てなさい」 「だって、近くで顔が見たいから」 「……いいから寝てなさい」  一瞬ドキッとしてしまったが、表情には出さずに続ける。 「これからどうするか会議してたんだけどさ、どーしょもないよな。だって相手、すんげーカマ持ってんじゃん? だけどうちには武器なんてないし。でも、一応出たよ、結論がふたつ」 「なに?」 「そのいち。戸締りはキッチリで」 「もうひとつは?」 「頑張って説得」  テンコはそれを聞《ロ》いて、吹き出してしまった。なんとも神山《かみやま》家らしい結論だ。 「なに笑ってんだよ。しょうがねえだろ、そう言ってたんだから」 「うん、そうだね。ごめん」‘まだ傷が痛むのか、彼女は顔を辛《つら》そうに歪《ゆカ》めた。それでも、佐間太郎《さまたろう》の手は絶対に離そうとはしない。 「そう言えば、オフクロがお前のこと家族だって言ってたぞ。ここにいる限り、家族なんだってさ」 「だけどあたし、天使だし」 「そんなの関係ねえってさ。懐《ふところ》が深いのか、節操ないのかわかんないけどさ。お前の傷を治してくれたのだって、オフクロだしな」 「そうなんだ……。知らなかったよ。後でお礼言わなくちゃ」 「そうだな。言っとけ」 「運んでくれたのは、佐間太郎」 「ああ、そうだな」  テンコはゆっくりと寝返りを打った。しっかりと彼の顔が見える角度に。 「あたし、天国に帰っちゃうんだ」  また爆弾発言か。色々あるね、爆弾。久美子《くみニ》といいスグルといい、コイツといい。 「知ってる。久美子さんに聞いたから」 「だから優しくしてくれてるんでしょ? 本当はあたしなんて必要ないのに」 「まだ言ってんのか。お前は」 「言う。いつまでも言う」  テンコは、静かに目を閉じる。 「ごめん、目、閉じてていい? 苦しくて」 「もちろん。もう言うな。必要ないとかそういうの」 「言う。言うもん。佐間太郎があたしのこと必要だって思ってくれるまで、言うもん」  もう半分以上眠っているようなトーンで、彼女は眩《つぶや》いた。 「好きじゃなくていいの。ただ、必要だよって言ってくれるだけいいの」 「あっそ」 「あっそじゃなくて、必要だよって……」 「あっそ」 「あっそじゃなくて……必要だよ……って」 「あっそ」 「あっそ……じゃなくて……好き・…:だよ…・:って……」 「違うじゃねえか。最後、変わってたぞ」  テンコは、スゥスゥと気持ちよさそうな寝息を立てて眠り始めた。 「まったく、変なやつだ」 「佐間太郎《さまたろう》は彼女の頬《ほお》にキスをすると、電気を消してテンコの部屋へと向かう。いや、かなりサラッとキスをしたように思えるが、本当は心臓バクバクの、体温ガンガンであった。しちゃったよ、キス。寝てるときに。これ犯罪かね。ってな具合に。 「あ、神山《かみやま》くん」  そこには、久美子《くみこ》がいた。二人は緒の部屋に寝ることになったのだ。ママさんは猛烈に反対したが、美佐《みさ》とメメに 「だって女の子を守るのは男の役目じゃない」というようなことを言われ、渋々と納得した。きっとフミコがくるとしたら、まず久美子と接触するだろうというのを見越してのことだ。 「疲れたからもう寝る。久美子さんベッド。俺《おれ》、床ね」 「うん、ごめんなさい」 「問題なしー。じゃあね、おやすみ」  彼はすぐにイビキ交じりの寝息を立て始める。それを見て、久美子はクスッと笑った.、 「あったかいんですね、家族って」  久美子は、こっそりと眠っている佐間太郎に近づく。そして、頬にそっとキスをした。 「むにゃむにゃ……テンコ……」  彼は、そう言って寝返りを打った。  第五章天使爆発の音で目が覚めた。時計を見ると、夜中の三時である。  久美子も同時に目を覚ましたのか、眠そうに目を擦《こす》っていた。 「もー! 夜中なのによ!」  彼は慌《あわ》てて音のした、玄関の方へと向かう。 「おはよー、神山くんっ」  めちゃくちゃに壊された玄関で、フミコが笑っていた。キャミソールにジーンズ、そしてベットリと血のついた巨大なカマ。  彼女の足元には、ママさんが倒れている。うつ伏せになっているため表情は見えないが、頭から大量に血を流しているのがわかった。 「オフクロ……」  頭の中が真っ白になるのがわかる。血の気が引いて、思考することができない。 「あらあら。あたしはね、ちゃんとチャイム鳴らしたのよ。そしたらこの人、開けてくれてね。あたしの命はどうでもいいから、子供たちだけは助けてくださいってお願いされちやった」  コドモタチダケハタスケテクダサイッテオネガイサレチャッタ。 「どうでもいいんだーと思って、やっちゃったよお……。ごめんね、神山《かみやま》くん」  ヤッチャッタ。 「うわ、やばい。あんたの声が、ラジオからの音みたいに聞こえる」 「え、マジで? よかったね、ブチ切れだね、神山くん」  いちいち名前を呼ぶんじゃねえよ、ムカつく。 「え? なに? 聞えない。聞えないなあ〜」  フミコはそう言うと、汚れた足をママさんの頭に押し付けた。サラサラとした彼女の髪の毛が、今では血でベットリと濡《ぬ》れている。 「しぶとかったから、ボカーンてしちゃった。ごめん、起きちゃった? うるさかった? 近所迷惑だった?」 「絶対殺す」  佐間太郎《さまたろう》はなんの考えもなしに、フミコに飛びかかった。拳《こぶし》を振り上げ、渾身《こんしん》の力を込めて殴りつけようとする。 『佐間太郎ちゃん!』  その攻撃にブレーキをかけたのは、ママさんの声だった。 『頭、痛いっす……』  返事をしたいが、思考回路が停止していて、なにを言えばいいのかわからない。  拳を握り締めたまま立ち尽くす彼を、フミコは楽しそうに見ている。 『佐間太郎ちゃん。叩《たた》いちゃダメでしょ? さっき会議したじゃない。説得。これ、でイってみよう。暴力はなにも解決しないのよ? 暴力は、人の心に悪魔を呼び起こすの。憎しみは、人を悪魔にするの。優しい佐間太郎ちゃんのままでいて? こっちの世界に留《とど》まって? 佐間太郎ちゃんの中にも、小さな悪魔が住んでる。だけど、それを育ててはダメ。  あっちの怖い世界に引きずり込まれたらダメ。いつでも素敵な佐間太郎ちゃんでいて』 「ふざけんなよ! オフクロ、めちゃめちゃにやられてんじゃねえか!」  悔しくてしかたなかった。今すぐにでもフミコに世界中の暴力を叩きつけたかった。 『ダイジョーブイ。生きてる生きてる』 「動いてねえじゃねえかよ!」 『動いてないけど話してるじゃない。やーね。なんで話してると思う?』  わからない。そんなことは今はどうでもいい。 『どうでもよくないっ。心が通じてるから会話できるんでしょ? 佐間太郎ちゃん、そこのカマ女と会話できる? できないね。話はしているけど、全然ダメな感じだね。はい、なんで? そう、心が通じてないから。今の佐間太郎ちゃん、怖いよ。ママさん、そんな佐間太郎ちゃん好きじゃない。好きだけどね。でも嫌い。暴力反対。ピース! 以上っ』  フミコはカマをクルクルッと回すと、柄《え》を地面に向けた。 「ゴッツンコ」  そう言って、ママさんの頭に柄の先を叩《たた》きつける。ゴリッという鈍い音がして、電気シヨックを受けたみたいに彼女の体はビクンと痙攣《けいれん》した。 「ママ……」  背後で声が聞こえた。振り返ると、階段の途中でメメが呆然《ぼうぜん》とした顔をして立っている。 「あら、ガキンチョ。おはようさん、フミコです」 「いやあああああああああああああああ!」  メメは力の限り叫《さけ》んだ。家全体が振動して、ビリビリと皮膚が震える。 『佐間太郎《さまたろう》! メメがあっちに行かないようにしなさいっ!』  美佐《みさ》の声が聞こえた。あっちとは、さっきママさんが言っていたことだろうか。  わからない、なにがなんだかわからない。 「もー、ガキンチョうるさいなー。ほいっ」  フ・、・コは、カマを軽く振り上げて突風を作った。それは凄まじいスピードで、吸い込まれるようにメメに吹いた。 「きやうつ!」  彼女は突風により、階段の踊り場に叩きつけられる。しばらくは接着剤でくっつけたように壁に貼《は》り付いていたが、少ししてズルズルと落ちていった。そして、そのまま階段に倒れこんだ。 『佐間太郎! すぐ行くから怒らないで! こっちに留《とど》まって!』  転がる落ちるように美佐が階段から降りてきた。途中でメメを見たが、どうすることもできないと判断してそのまま寝かせておく。 「佐間太郎、これ見てみ」.  彼女は、小さな折りたたみ式のハンドミラーを突き出す。そこに写った佐間太郎の目は、真っ赤に充血していた。涙を流したための赤ではない。もっと深く、冷たい、濁った色をしている。  パチンッと、美佐は鏡を閉じた。 「あんた、それじゃ、あの悪魔と変わんないよ? 感情に任せて怒ったりするの、カッチョよくないよ?」  佐間太郎は、自分が悪魔に取り込まれそうになっていることにゾッとした。かと言って、どうすればいいと言うのだろう。 「テンコと久美子《くみこ》さんのとこ行きなさい。女の子を守るのは?」 「男の役目? でも姉ちゃんも女の子じゃないかよ」 「うっせ。あんた、あたしのこと女扱いしたことないくせに、よく言うわよね。んじゃま、そんな感じで。ゴッ」  戸惑っている彼に、美佐《みさ》は強く頬《ほお》を叩《たた》く。 「バーカ。さっさと行きなさい。姉ちゃんの命令聞けない?」  それは命令と呼ばれるような強制的なものではなかった。  もつと切実で、もっと頼りない、細い糸のような言葉だった。 「姉ちゃん、わかった。やられんなよ?」 「モチロォ〜ンですっ」  佐間太郎《さまたろう》は階段を駆け上がり、メメを抱きかかえると久美子《くみこ》のいる部屋へと向かった。  ドアを開けると、彼女は耳を塞《ふさ》いで踵《うずくま》っている。 「久美子さん! こっち来て! 早く!」  返事をする前に、彼女の手を引き、部屋から引きずり出そうとした。  その時、またしても大きな爆発音が玄関から聞こえた。その音で、久美子はハッと我に返る。なにか言おうとしている彼女の腕を引き、テンコの眠っている自室へと向かった。  ドアを足で思い切り蹴《け》り開けると、フミコがテンコの顔を覗《のぞ》き込んでいた。 「そいつに触るなあああああ1」 「あ、神山《かみやま》くん。遅かったねー」  彼女はそう言ってカマをテンコの首に引っ掛けた。よほど疲れているのか、そんな状態でもテンコは目を覚まさない。 「これ、チョイッと引くと、首が、スパッ」  久美子《くみこ》は悲鳴に近い声を上げる。 「お母さん、やめて! なんでこんなことするの!」 「あんたが裏切ったからでしょ? 悪魔がそっちに行くなんて、信じられない。あんたは生まれた時から悪魔なの。一生悪魔。どう転んでも悪魔。死ぬまで悪魔。死んでも悪魔。さっさと戻ってきなさい」  佐間太郎《さまたろう》の腕を引き離し、久美子は一歩前へ出た。 「わたしがお母さんの元に戻れば、もうこんなことしない?」 「しないね。約束する。こっち来る?」  フミコは楽しそうにカマを持つ手を小さく動かす。その度《たび》に、テンコの首に刃がヒタヒタと触れた。 「テンコさんを傷つけない?」  嘘《うそ》だ。 「つけない」  絶対嘘だ。久美子さん、あいつを信用するな。 「本当に?」  嘘だ。嘘に決まってる。 「本当。約束。嘘ついたら、舌抜かれちゃうからね」 「わかった、行く」  佐間太郎は、声さえ出せずにいた。恐怖と絶望と怒りで、震えが止まらない。  久美子はゆっくりとフミコに歩み寄る。そして、ついに彼女の隣に行くと、黙ったまま立ち尽くす。 「はい、ゴクロウさん。そんじゃま……」  そう言ってフミコはカマを振り上げる。やっぱりだ。 「待って、お母さん」 「なんだよ? 邪魔すんのかい?」 「わたし、お母さんの言うこと、信用したんだからね」  彼女は 「お母さん」という部分を強調して言った。それを聞いて、フミコは一瞬言葉を詰まらせる。振り上げたカマをそのままに、彼女はしばらくなにかを考えていた。 「わかった。かわいい久美子ちゃんのお願いだもんね。それだけは聞いてあげる」  フミコは久美子を抱きかかえると、大声で叫《さけ》んだ。 「神山《かみやま》くん、公園で待ってるからね。わかるでしょ、あの公園だよん! 来なかったら、あたしの娘、死んじゃうかもね!」  そして窓ガラスを突き破ると、そのまま外へ消えていった。 「オフクロ。今までありがとう」  佐間太郎《さまたろう》は、ママさんを夫婦の寝室に寝かせると、頬《ほお》にキスをした。彼女はグッタリとして、動きだす気配はない。 「これからフミコに会いに行く。だって久美子《くみこ》さんが捕まったまんまだからね。助けに行かなくちゃ。家族だもんな」.  布団《ふとん》を肩までかぶせると、今度は玄関に倒れている美佐《みさ》を背負って部屋へと運ぶ。 「姉ちゃん、あの時の鏡ありがと!。あのままだったら、なにしてたかわかんなかったよ。まあ、勝てないだろうから、普通にやられてただろうけど」  ママさんと同じように頬にキスをしてから、部屋のドアを閉める。  次はメメだ。小さなベッドの上で、彼女もまた心細い寝息を立てていた。 「普段クールなくせに、やっぱ子供だよなあ。あん時、いきなり叫《さナ》ぶからビビったよ。あのままだったら、向こう側に行ってたかも知れないな。吹っ飛ばされたのは災難だったけど、よかったのかも知れない。目を覚ませば笑い話だ」  そしてキス。  最後は、テンコの部屋だ。音を立てないようにドアを開け、彼女の枕《まくり》元に立つ。 「テンコ。俺《おれ》にはお前が必要だよ」  たった一言だけ残して、彼は神山《かみやま》家を出た。フミコの待つ、公園へと向かう。  佐間太郎にはなんの考えもなかった。どうすれば彼女を倒せるのかも、久美子を救うことができるのかも。力もないし、特別な能力もない。ただの神様の息子である。  だが、公園に行かないわけにはいかなかった。ママさんの言葉を思い出す。 『ここは神様の家なんだよ? 助けて欲しい人がきたら、誰《だれ》だって助ける。それが悪魔でも、人間でも、なーんでもね。それが神様のおうち』  ここで言っていた悪魔とは、久美子のことだけではなかったのだ。フミコもそれに含まれていたに違いない。  人は誰でも救いを求めている。なにかに苦しんで、どこかで迷っている。  天使も悪魔も同じ。もちろん、神様だって。  だけど、神様は困ってちゃいけない。救いの手を差し伸べなくてはならないのだ。 「佐間太郎様。よくぞご無事で」  頭の上で声がした。スグルがパタパタと飛んでいる。 「あー。そういえばスグルってどこにいたの?」 「玄関で見張りをしていたのですが、最初の爆発で女神様と一緒に吹き飛ばされまして、恥ずかしながら気を失っておりました」 「あはは、なにそれ。あ、そうだ、小銭……」  佐間太郎《さまたろう》はポケットを探ったが、中には五百円玉しかなかった。 「ええいっ、いいや。奮発1最後かもしれないし1」 「佐間太郎様! そんな、最後だなんて、縁起でもな……」  チャリーン。 「五百円デス。合計千四百円デス。オミクジデス」  すると、スグルの口からペロロロロとレシートのような紙が出てきた。 「なに? おみくじって」 「はあ。恥ずかしながら、五百円玉のお客様には、おみくじをプレゼント」  佐間太郎はプッと吹き出した。 「なにその機能。いらねえよ。でも、ちょっと見てみる」  彼は、スグルから吐き出されたおみくじを眺める。 「なにこれ! 凶って書いてあるよ! うわ、縁起悪《わり》いの出すなよ……」 「はあ……そうでございますか……」  妙に元気のない声でスグルは言った。心なしか高度も落ちている。 「なに、どしたの」 「いや、その結果、わたしの結果でございます」 「意味ねえよ! なんで俺《おれ》が金払って、お前の占い結果見なくちゃいけねーんだよ!」 「残念ながら、そういうシステムで。はあ……」 「だからため息つくな!」  その時、強い風が吹いた。二人はふと黙り込む。もう目の前は公園だった。 「スグル。帰るなら今だぜ」 「ふふ、佐間太郎様。お供します」  敷地の中に入ると、フミコが巨大な犬のオバケみたいな生き物に跨《またが》っていた。口の端から唾液《だえき》を垂らし、燃えるように赤い目をしている。  それを見た瞬間、スグルはクルッと向きを変えた。 「帰ります」 「もう遅いっ」  佐間太郎はスグルをガッツリ掴《つか》むと、そのまま彼女の前まで歩いていく。  妙に胴の長い怪物は、牛のような大きさをしている。しかし、どう見ても犬だ。しかも、ダックスだ。 「そう言えば久美子《くみこ》さん、飼ってた犬がどうこう言ってたな……」  どうせならここまで細かく説明してくれよと思ったが、もう遅い。犬の陰から、完全に表情の消えた顔の久美子《くみこ》も姿を現す。手には、銀色に光るナイフを持っていた。  フミコはニヤッと笑うと、大声で叫《さけ》んだ。 「よく来たね、神山《かみやま》くん。今から神が死ぬんだ。この場でね。この子がそれを行う」  そう言われて、久美子は一歩前に踏み出す。彼女の目は、なんの意思も感じられない。  完全に輝きを失っていた。 「わたし、覚悟しました」  ナイフを握り締めると、決意のこもった口調で彼女は言った。 「いいこだね、久美子ちゃん。話が早いね。それじゃ、やってもらおうかな」 「あ、その前にちょっといい?」  佐間太郎《さまたろう》はスグルから手を離すと、コホンと咳払《せきばら》いをする。ちなみに、スグルはイキナリ解放されたことにより、真《ま》っ直《す》ぐに地面に落ちて気を失った。さすが、凶である。 「なんだい? 命乞《いのちこ》いかい?」 「じゃなくてー。説得」 「説得?」  フミコは面白そうに彼の言葉を繰り返す。 「えーと、ですね。うーんと……。説得なんてしたことないから、わかんないな。コホンコホン。あー! 悪魔に告ぐ! 今すぐ武器を捨てて、観念しなさい!」  佐間太郎の声が、虚《むな》しく公園に響いた。 「それだけかい?」 「うん。後は思いつかない」 「さ、久美子、やっておしまい。わたしに親孝行をするんだよ。美味《おい》しい魂を、お腹いっぱい食べさせておくれ?」  久美子はゆっくりと佐間太郎に近づいてくる。表情は一切変わらない。  フ、、、コと佐間太郎の、ちょうど真ん中ぐらいまでくると、彼女は平坦《へいたん》な声で言った。 「あなたと過ごした時間は、とても大切なものでした。きっと、今後忘れられない麓い出となるでしょう。だけど、残念なことにお別れの時です。もう、二度と、会うことはないでしょう」 「マジかよ……。久美子さーん、しっかりして?」  佐間太郎が言っても、彼女は顔色ひとつ変えない。 「はあ。しょうがねえか、なるようになるかな」  彼蟻謹めて、しっかりと久美子の目を見つめる・鏡のようにツルッとした礫寒つた・その中に、佐間太郎の顔が映りこんでいる。もう彼の目は、赤くない。  とても穏《おだ》やかな色をしていた。 「さようなら」  久美子《くみこ》はそう言って、ナイフを構えて走り出す。  彼女の持っていたナイフは、ちょうどお腹の辺りに深く突き刺さった。  あまりにも一瞬のことで、佐間太郎《さホゆたろう》はなにが起こったのか理解できなかった。 「ぎゃあああああああああ!」  悲痛な叫《さけ》び声が、深夜の公園にこだまする。 「久美子……あんた、裏切ったわね……」  久美子はナイフを構えると後ろを振り返り、真《ま》っ直《す》ぐにフミコの元へと走り出したのだった。  そして、彼女の下腹部に向かって、思い切り銀色の刃物を刺し込んだのだ。  フミコは苦しそうな声で、彼女に向かって叫ぶ。 「あんた、母親に向かってなんてことするんだい1」  しかし、久美子は迷いのない声で反論する。既《すで》に、彼女の顔には表情が戻っていた。とても悲しく、辛《つら》そうな瞳《ひとみ》だ。 「あんたなんて、お母さんじゃないもん! 優しかったお母さんを返して!」 「バカを言うな! あれは全部演技だ! 嘘《うそ》だ1」 「演技でも嘘でも、わたしには、あれが全《すべ》てだった。あれが本当のお母さんだった! 今のあんたは、ただの悪魔よ!」 「うるさいっ!」  フミコが腕を振ると、久美子は人形みたいに簡単に投げ飛ばされた。彼女は佐間太郎の近くまで転がってくると、苦しそうに訴えかけてくる。 「神山《かみやま》くん……お母さんを、助けてあげて……」 「もちろん! 当たり前U」  と断言したものの、どうすればいいのかまったくわからない。とりあえず、言ったもん勝ちである。  自分の体に突き刺さった金属を、フミコはゆっくりと引っこ抜いた。真っ赤な血が吹き出し、辺りの地面をドロドロに濡《ぬ》らす。 「はあはあ……まあ、これぐらいのほうがハンデがあって面白いかもね」  握っていたナイフを佐問太郎のほうへ放り投げると、顎《あご》で拾うように示す。 「ほら、使いなよ、神山くん。あたしを殺したいんでしょ?」  しかし彼は、スニーカーのつま先でナイフを蹴り飛ばす。 「俺《おれ》の武器は……説得!」  佐間太郎は、ググッと拳《こぶし》を握り締めて叫んだ。 「あはは。どこまでもお人よしだね。少しは楽しめるかと思ったんだけどね。すぐに料理してあげるね」  巨大な犬は、なんの合図もなく飛び上がった。よく訓練されているようで、意思の疎通は完壁《かんべき》のようだ。  うわー、でっけーいぬー、と口をアングリと開けて見ていたが、その影はすぐに佐間太郎《さまたうりつ》の体に突っ込んできた。 「うああああああ!」  体中を引き裂かれるような痛みが襲う。地面の上に頭から叩《たた》きつけられ、それから何度も反動でバウンドした。 「めちゃめちゃ痛いんですけど……」  全身が擦《す》り傷《きず》だらけになっているはずだ。しかし、どうしてあの犬の攻撃で外傷的な痛みを感じてしまうのだろう。 「このワンちゃんは、捨て犬だったんだよーん。だから、人間に対しての恨みがこもってるからね。近年のペットブームに物申すって感じだね、神山《かみやま》くん」 「はいはい、説明ありがとう。で、そんだけか?」  フミコの顔が、一瞬で険《ナわ》しくなった。挑発を受け頭にきたらしい。正直、言わなきゃよかったと佐間太郎は思う。 「じゃあ、これはどう!」  巨大な犬の前足が、彼の頭に叩きつけられた。脳みそが揺れ、一瞬視界が真っ黒になる。  吐いてしまいそうな気分の悪さの直後に、気の遠くなるような痛みが背骨に走った。 「なんで頭叩かれて背中いってーのこれ! 不思議!」  唇が切れて、血の味が口の中に広がる。ただ立っていることさえ困難な状態だ。 「しぶといね、神山くん。じゃあ、こんなのは?」  彼女が持っていたカマを回転させると、一瞬で佐間太郎の全身が切り傷だらけになる。  致命傷にはならないが、当分はお風呂《ふろ》に入れない日々が続くだろう。生きていれば。 「熱い! 痛いんじゃなくて、熱い! あと、かゆい! かゆ熱い!」  ボロボロになった洋服を真っ赤な血で染め、佐間太郎は叫《さけ》び声を上げる。痛みで気を失いそうだが、ここで倒れては話にならない。なぜなら…… 「俺《おれ》の武器は、説得!」 「えいっ」  それを聞いたフミコは、カカトで彼の頭を蹴っ飛ばした。 「あうっ」  頭を蹴られると、星が見えるって本当なんですよ。真っ暗な世界で、七色の星が飛び散 「り、アゴに激痛が襲ってくる。 「だから、なんでアゴがいってーの! 不思議パートツー!」 「その減らず口を叩けないようにしてあげようかな」  彼女はそう言って、二十発近い殴打を彼に浴びせた。さすがの佐間太郎《さまたろう》も、悲鳴を上げる暇《いとま》もない。 「……(吐きそう)」  頭から地面に倒れる。もちろん、後《の》頭部を強打した。ゼェゼェと、引きつるような呼吸だけが聞こえてくる。言葉を発する元気もない。 「そろそろ、トドメの時間かしらね?」  もう起き上がる気力もない。視界の隅で、久美子《くみこ》が倒れているのが見える。  ごめんね久美子さん、俺《おれ》は家族を守れなかったよ。もうダメです。 「待って!」  嫌な予感がした。もしかして、万が一、そうだったら嫌だな〜と思いつつ、首だけをなんとか動かして声の方を見る。こんなタイミングで、こんな状況に出てくるやつなんて、世界中を探したって一人しかいない。あの、アホだ。 「ごめんね、佐間太郎。来るのが遅くなって」  テンコはそう言って笑った。体が痛むのか、ヨロヨロと歩きながらフミコと佐間太郎の間に立ち尽くす。 「帰れ、テンコ〜。今日からお前は帰宅部の部長に任命。はい、帰宅せよ」 「帰らないよ。えへへ、あたし、帰らないもん」  彼女はそう言って、いつ拾ったのか、銀色のナイフを構えた。 「だってあたし、佐間太郎に必要だって言われちゃったもん。だから、帰らない」 「あのな、状況考えろよ。勝てるわけねーだろ、あんなバケモン」 「わかんないよ? やってみないと。だってあたし、佐間太郎を守るのが仕事だもん!」  守れないから。どう考えても守れないから。佐間太郎はガクンと首を倒し、どうしたもんかなーと頭を抱える。 「あらあらテンコちゃん。いつかは泣いて逃げたのに、今日は随分と元気ね」 「はいい〜。そのとおりです。これがあたしのお仕事ですからねっ」  フミコは、軽くカマをブンッと振った。 「えいっ」 「あうっ」  テンコは小さなつむじ風に巻き込まれると、地面の上をグルングルンと散々転がり、しまいにはベンチの角にゴインと頭をぶつけた。 「いったー1コブ! コブ!」  ヘコブじゃなくてね。お気楽な天使である。 「いたたた……。でも、まだまだですからね」  彼女はそう言つて立ち上がると、果敢にもフミコに向かって駆け寄る。 「えうっ」 「あうんっ」  後はその繰り返しだ。起き上がっては吹き飛ばされ、起き上がっては吹き飛ばれ。どこにそんな体力があるのだろうかと思うほど、何度も何度も彼女はフミコに向かっていった。  こういう動きの朝練《あされん》とか、ありそうである。合気道《あいきどう》とか。 「は、はは、は。まだまだです……」  まだまだなのはお前の頭だ。そう佐間太郎《さまたろう》は心の中で突っ込んだ。  次第にテンコは、佐間太郎と同じように悲鳴すら上げなくなった。壊れたゼンマイ仕掛けの人形のように、フラフラと彼女に向かって行き、すぐに吹き飛ばされる。着ている洋服に血が滲《にじ》み、閉じていたはずの腕の傷からも出血している。 『頼む、帰ってくれ。もう見てられない』 『ううん、あたしは帰らないよ。佐間太郎が必要としてくれるなら、ずっとここでこうしてる』 『それ、迷惑なんですけど』 『なんでよi!』  心の声で会話をしながらも、テンコはゴロゴロと地面を転がり、吹き飛ばされる。 『あのね、佐間太郎。あたしね、本当に嬉《うれ》しかったんだから。あの時のこと、一生忘れないんだから』 『つうか、寝た振りか? 趣味悪いな』 『違うよ、動けないし、話せなかったの……はあはあ、ちょっとタンマ、おしゃべりできない』 『おい、テンコP“テンコ!』 『…………』  彼女は、黙々と投げ飛ばされ続けた。それがこの世界に残るための試練のように、自らの体を痛めつけているふうにすら見える。 「仕方ないねー。じゃあワンちゃん、食べていいよ。餌《しべさ》ね」  フミコがそう言うと、犬の化け物はテンコに恐ろしい力で噛《か》み付いた。 「いやあああああああああ!」  彼女を凶悪な歯でくわえると、頭を振って体力を奪おうとする。テンコは怪物に噛み付かれたまま、グワングワンと頭を揺らした。 「怪《》物は頭を振りながら、口を開ける。彼女はそのまま佐間太郎の元へと吹き飛ばされ、 「傷跡から血を流しながら言った。 「ギブ」  そう一言だけ漏らすと、それっきり黙りこんでしまう。 「お疲れさん。俺《おれ》の番だ」  伽陥か麟は・立ち上がれないはずの体で立ち上がった。そして、曙べないはずの声で叫んだ。 「俺の武器は、説得!」 「あきた・裡雌くん・もうあきたよ・それ・つまんない。如嚢からやっちゃうね」 「え?」  フミコはそう言って、カマを久美子に向かって振る。彼女の体に大きな傷がつき、噴水のように血が溢《あふ》れた。 「おい! なにしてんだ!」 「次は、そこのテンコちん」  同じようにフミコは、カマでテンコを切り刻む。寝癖《ねぐせ》のように跳《は》ねたテンコの髪の毛が、バサッと飛び散った。頭から血がブバッと破裂するように流れる。 「なにしてんだよ! 顔は女の子の命だぞ1傷ついたらどうすんだよ1」 「命がなければいいんじゃないのp…子供たちだけは助けてくださいって言ってた、あの人みたいにね」  彼女が言っているのは、ママさんのことだ。  ママさんが、頭をゴリゴリと足で踏んづけられていたことが思い出される。  それからメメ。彼女は泣き叫びながら、突風に吹き飛ばされた。  美佐《みさ》は、爆発に巻き込まれてグッタリしていた。  久美子とテンコは、今、この場で、体を切り裂かれてしまった。 「ふざけんじゃねえよ、いい加減にしろよ1マジで!」  佐間太郎の目は、真っ赤に染まっていた。怒りと憎しみで燃え上がっている。 「いい目だね。そういうの、好き。こっちにおいで?」  フミコは犬から下りると、挑発するような足取りで彼に近づく。おまけに、テンコが落としたナイフを蹴り上げて、佐間太郎の方へとよこした。 「それで刺しちゃいな。悪魔を、さ」  佐間太郎はナイフを握り締める。絶対に許せない。家族に酷《ひど》いことして、このままで済むと思うなよ。  頭の中にある火薬の導火線に火がつく。もう彼の頭の中には、悪魔を倒すことしかなかった。 『佐間太郎ちゃん、説得だからね……』  弱々しい声で、ママさんが言った。 『あんた、二人を守りなさいよ。でも暴力反対。OK?』  苦しそうに美佐が続ける。 『……なんとか頑張れ」  メメが、ようやくそれだけ眩《つぶや》く。 『ごめんね、佐間太郎《さまたろう》。守ってあげられなくて』  近くにいるはずのテンコからの声は、聞き取れないほど遠かった。  佐間太郎は無防備な動きで、フミコの目の前まで歩み寄る。 「あら、度胸あるじゃない、神山《かみやま》くん」 「決めた。俺《おれ》は、やっつける」 「そう。真っ赤な目をしてるもの。もう我慢できないでしょうね」 「我慢できない。誰《だれ》がなんと言っても無駄。覚悟してくれ」  彼はそう言って、ナイフを振り上げた。フミコは、それでも楽しそうに笑っている。 『佐間太郎!』  家族の声が混じって、大音量で心に飛び込んできた。  しかし、彼の決意が変わることはない。 「悪魔はね、胸が弱点。ちゃんと狙《ねら》ってね、神山くんっ」 「ありがとう。外さないよ」  そして佐間太郎は、ナイフを思い切り振り下ろした。  自分の胸に向かって。 「いってえええええええええええええ1」  今までに見たことのない量の血が瞬時に吹き出した。  その血は、フミコの全身にビシャビシャと飛び散る。 「なにしてんの……あんた、なにしてんの?」 「え? なにしてるか? 俺は今ね、自分の心の中にいる悪魔にナイフを突き立ててんだよ。わかりますか、フミコさん」 「わかんないわよ、なんなのよ!」 「俺は絶対にそっち側には行かない。憎しみに飲み込まれない。俺の中にいる悪魔を、消し去ってやる」  そう叫《さけ》ぶと、佐間太郎はもう一度胸を突き刺した。それと同時に、フミコの体がビクンと大きく脈打つ。 「きゃあああああ! あぐう、なんで苦しいの……なんで?」 「当たり前だよ。俺は神様なんだから。神様は世界なの。その世界の中にいる悪魔を消そうとしてる。だったら、この世界の悪魔であるあんたも消えるんじゃないの? ね、フミコさん」 「全然わかんない! 関係ないじゃない。どうしてあたしがー−・」  もう一度。深く、胸の奥に鉄の塊は吸い込まれる。 「ああああああああああああああ!」  しかし、今度はフミコしか叫《さけ》ばなかった。彼の痛みは、全《すべ》てフミコに向かっている。 「納得いかないわよ。意味わかんないわよ。どうしてあんたが傷ついて、あたしが痛むのよ!」 「納得いかねえのはこっちだよ。なにが悪夢だよ。人の心の弱さに付け込んだり、うちの家族をいいようにしてくれたり、そんなのもうウンザリなんだよ!」  佐間太郎《さまたろう》は、トドメを刺すようにナイフを振り上げる。 「あ、ちなみに、俺《おれ》の武器は説得なんだけど。どうする? フミコさん」 「うるさい!」 「わかったよ。それじゃあね。バイバイ」  渾身《こんしん》の力を込めて、胸にナイフを突き立てた。あ、今ちょっと、ヤバいとこまで行ったんじゃないかな、というぐらい深く金属は飲み込まれる。 「きゃあああああ!」  フミコは全身を真っ赤な炎で燃え上がらせ、一瞬で灰になってしまった。 「……痛い」  佐間太郎はナイフを放り投げると、その場に倒れこんだ。薄れいく意識の中で、犬のバケモノが尻尾《しつぼ》を巻いて逃げていくのが見えた。  あの犬、どーすんだろ。まあいっか、そのうちなんとかなるかな。  佐間太郎《さまたろう》は、完全に気を失った。 「うわー! 佐間太郎1」 「神山《かみやま》くん1」  テンコと久美子《くみこ》は、体を引きずるようにして佐間太郎の元へとやってくる。 「死んじゃやだよ1死んだらダメだかんね1」  グッタリとしている佐間太郎を抱きしめ、頬《ほお》を寄せるテンコ。 「神山くん1神山くん1」  久美子も彼の手を握り、必死に涙を流している。 「起きてよ、起きてってば! なんでこうなるのよ!」  しかし、いくら叫《さけ》んでも彼は返事をしない。呼吸もしているのかどうかすら怪しい。 「絶対ダメだからね、絶対ダメだからね! 起きてね1起きてね!」 「神山くん! 目を覚ましてよう1お願いです!」 「佐間太郎……」  テンコは、不意に黙り込んだ。久美子はどうしたのかと声をかける。 「あの、テンコさん?」 「うるさいの1今、お祈りしてるんだから1」 「お祈りって……そんなこと……」 「だってそうするしかないでしょ! 奇跡、起こすしかないでしょ1」 「奇跡なんて、そう簡単に起こりませんよ!」  テンコは、久美子の頬を強く平手で叩《たた》いた。 「起こるの1佐間太郎は神様なんだから1それに、あたしは天使なんだから!」  瞬《まばた》きする度に、テンコの瞳《ひとみ》から大粒の涙が落ちる。 「だって、あたしは、悪魔だから、奇跡なんて……」 「うるさいの! あんた、佐間太郎のこと大事に思うんでしょP」 「そ、それはそうですけど……」 「だったら祈りなさい! 家族なんでしょ!」  家族。久美子は、ドキッとした。  わたしとこの人たちは、家族なんだろうか。自分は悪魔だし、一緒にいた時間もほんの僅《わず》かしかない。それでも家族と呼べるのだろうか。  彼女は自分の手のひらを見つめる。血の気がなく、プラスティックのような色をしていた。こんな自分が祈って、なにか起こるのだろうか。そんなことして、笑われないだろうか。わたしは、みんなの中に入っていっていいのだろうか。 「ちょつと」  テンコは、久美子《くみこ》の手を引《ひ》っ叩《ばた》くように掴《つか》んだ。 「迷わないで。あんたが信じるのは、神様じゃないの」  やっぱり。悪魔の自分に、神様に奇跡を願うようなことは……。 「あんたが信じるのは、自分自身の力よ」  テンコは、ハッキリとした口調でそう言うと、歯を食いしばるようにマブタを閉じた。 「あたしが信じるのはあたしの力……」  悪魔が悪魔を信じる? そんなことで彼になにか起こるのだろうか。自分にはなんの力もないのに、信じてどうなるって言うのだろうか。 「久美子さん……」  目を固く閉じながら、テンコが静かに言った。 「迷わないで」  久美子は、言われたとおりにすることにした。瞳《ひとみ》を閉じ、胸の前で手を重ねる。  そして、自分を信じて祈る。祈るって、なにを? どう祈る?  邪念。それは邪念。どっか行け。わたしはただ、神山《かみやま》くんに助かって欲しいだけ。もつと一緒にいたいだけ。ただ、彼のことが好きなだけ。  わたしは悪魔だけど……ううん、そんなこと関係ない。  ただ、わたしは、彼に、助かって、欲しい、だけ1 「なにそれ……」  テンコの声を聞いて、彼女は我に返った。やっぱり、わたしのお祈りって変だったんだろうか。悪魔がなにかを願うなんて、筋違いなのだろうか。 「ごめんなさい、わたし、ただ、その、神山くんに……」 「そうじゃなくて……羽……」  久美子の背中には、産毛《うぶげ》でできたような真っ自い羽が生えてきていた。 「なんでP”わたし、悪魔なのに……どうしてP」  いつの間にか、三人の周囲が温かい光で包まれている。それは、テンコと久美子の頭上に輝く、天使の輪の光だった。 「テンコさんも、羽、生えてますよ……。それに、わっかが……」 「久美子さんも、わっか……」  呆然《ぼうぜん》としながら、二人は見詰め合う。背後で、フミコの灰が粉雪のように輝きながら空へと吸い込まれていった。しかし、彼女たちはそんなことに気付く様子もない。  なにせ、自分たちの身に起こった変化に対応しきれていないのだ。 「とにかく、祈ろう!」 「はいっ」  二人の天使は、強く願った。  彼がまた起き上がりますように。  いつもと同じように、笑ってくれますように。  目を閉じている二人の前で、佐間太郎《さまたろう》がゆっくりと浮かび上がる。地上から十センチほど浮遊した状態で、クリームみたいに優しい光が彼を包んだ。  そして、ゆっくりと佐間太郎は目を覚ます。 「……テンコ……に、久美子《くみニ》さん?」 「やあああああ! 佐間太郎1」  テンコが目を開けた途端、光は消え去り、彼は地面に落っこちた。 「いってええええ! 背骨打った! 背骨!」  佐間太郎は背中を押さえながら、地面を転がり回っている。これだけの元気があれば、心配ないだろう。 「やった! 佐間太郎1やったよi!」  彼女は佐間太郎を抱きしめ、グイグイとほお擦《ず》りする。彼女自身の傷も、不思議と癒《い》えているようだった。久美子も体が軽くなった気がした。 「いってえよ、テンコ、本当に痛いから、触んないで!」 「なんでよ、なんでよ、いいじゃない! チュ! すっか? チュー」 「しねえよ!」  久美子は二人がじゃれるのを見て、笑いが止まらなくなった。いつもどこか寂しさを感じさせる笑い顔だったけれど、今の彼女にそんな様子はない。心の底から笑っているように思える。 「あはは、あははは、あははは!」  佐間太郎とテンコは、不意に笑い出した彼女を見て怪認《けげん》な顔をしてたが、次第に愉快になってきてしまった。 「あは、あはは。なんか、おかしいね。嬉《うれ》しいし」  テンコはそう言って、笑い出した。佐間太郎もつられて笑い出す。  いつの間にか二人の天使には羽も輪もなくなっていたが、もっと大切なものが残った。  ちなみに、スグルはベンチの下で気絶中である。なにせ、凶だからね。  i日曜日。  神山《かみやま》家では、一家総出の修繕工事が行われていた。パパさん以外の神様家族が、全員でお揃《そろ》いのジャージを着て、壁をトンカン打ち付けたり、ペンキを塗ったりしている。  もちろんテンコと久美子も一緒だ。 「はいはーい、みなさーん、働いてくださいねー」  元気に叫《さけ》んでいるのは、ママさんである。  美佐《みさ》もメメも、バケツを運んだりコンクリを練ったりしていた。  二人の天使が起こした奇跡は、遠く神山《かみやま》家で眠っていた三人にも及び、あれから数日経った今では、こうして肉体労働ができるまでになっている。 「なんでわざわざ自分でやんだよ。まだ傷だって完治してないのに」 「ほーら、ブツブツ文句言わないの」  佐間太郎《さまたろう》はテンコにスコップで頭を叩《たた》かれながらも、地道な作業を続けている。 「あの、これ、どこに運べばいいんでしょうか?」  久美子《くみこ》は積めるだけのブロックを載せた荷台をひきながら、楽しそうに言った。 「あのさ、久美子さん。無理に参加する必要ないよ? 休んでいいんだよ?」 「ううん、こういうの、楽しいですから!」  彼女はそう言って。ヨロヨロと庭の方へと消えていく。庭と言っても、子供用のビニールプールを置いただけでいっぱいになってしまうほどの質素なものであるが。 「はーい、佐間太郎ちゃん、これ図面。あなたの部屋、半分の広さになります」  ママさんはそう言って、なにやらゴチャゴチャと書いた紙を渡す。図面というより、落書きに近い。 「なんで俺《おれ》の部屋が半分になんだよ!」 「え? だって増設して、チョロ美《み》の部屋を作るからに決まってるじゃない。それとも、佐間太郎ちゃんはママさんと一緒に寝る? うん、いいのよ? あえて言わせてもらうと、そっちのほうが嬉《うれ》しいけど?」 「ごめんなさい、半分でいいです」 「残念ね……」 「あ、ちなみにですね、なんで業者に頼まないの? こういうの」 「え? だって、楽しいじゃない! みんなで青空の下で肉体労働! はい、荒ぶる鷹《たか》のポーズ! 手がポイント!」 「やんねえから」  しばらくすると休憩時間になり、それぞれが部屋に戻っていく。久美子はまだ部屋がないので、居間でテレビなんぞを見ている。あるいは、彼女自身、自分のために部屋が用意されてることを知らない可能性もある。三畳だけど。  テンコは部屋に戻ると、ジャージを脱いでTシャツ姿になった。  一息つこうと思うが、片付けなくてはならない問題が少しある。  それは、じっとコチラを見ているブタの貯金箱との約束だ。 「さあ、約束の時間はとっくに過ぎてるぞ? どうするんだ」  スグルはテンコの机の上で、眩《つぶや》く。しかし、彼女の答えはもうわかっていた。 「あはは。あの、ごめんなさいっ。やっぱり、戻らない」 「契約だぞ? どうしたんだ?」 「あの時は、あたしは佐間太郎《さまたろう》に必要とされてないって思ってたから。でも、ハッキリ聞いちゃったもん。だから、あの契約は無効です。あーあ残念、もうちょっとこっちにいなくちゃならないや」  スグルはフフフ、と笑った。テンコらしい答えだ。 「そうだな。契約は無効だな。しかたない、わたしだけ帰るか」 「え? 帰っちゃうの?」  彼女は少しだけ寂しそうに言った。 「そうだ。不満か?」 「う……。うん、ちょっとだけ、ね。そりゃ寂しくなるじゃない。あたし、これからなにを抱いてればいいの?」 「うむ。トースターでも抱きしめておけ」 「だってトースターじゃ、パンは焼けるけどお金は貯まんないもん」 「そうだな」  テンコが窓を開けると、風が吹いてカーテンがパアッと揺れた。  スグルは窓枠まで浮かぶと、最後にもう一度だけ、名残《なごリ》惜しそうに聞く。 「本当にいいのか? 天国に戻らなくて」 「いいよ。だってさ……」  彼女はモジモジと恥ずかしそうに答える。 「こっちには家族がいるもん。置いてけないよ」 「なるほどな。わかった、それでは、またな」 「みんなに挨拶《あいさつ》は?」 「寂しがられたら困るだろ?」 「大丈夫だよ、そんなに好かれてないし」 「うむ」  スグルはフワッと急浮上すると、窓から飛び出そうとする。 「あ、ちょっと待った1聞きたいことがあるんだけど。ブタと、久美子《くみニ》さんのおばさんの関係ってなんなの?」 「ああ。昔の同僚だ」 「同僚? 同僚って、あの悪魔、天使だったのP」  お腹の中で小銭をチャリチャリ鳴らしながら、スグルは言った。 「そうだ。昔は天使だった。彼女は人間に恋をしてしまった。その人間との間に生まれたのが久美子だ。しかし、背中に白い羽の生えた久美子を見て、人間は恐れ、逃げ出した。フーさんは羽を隠し人間として振舞うことができたが、生まれたばかりの久美子《くみこ》にはそんなこと無理だったのだ。いつだって他《ほか》と違うというだけで拒絶する人間はいるものだ。実らない恋は、フーさんの心を次第に赤く染め上げた。そして、悪魔になってしまったのだ。  悪魔に取り込まれた彼女は、人間への復讐《ふくしゆう》を始めた……」  テンコは納得がいった、という顔をする。 「だから久美子さんはあの時、天使になれたのか。元々は天使の子供だもんね」 「そうだ。久美子は悪魔に取り込まれなかった。こっちの世界へと戻ってきたのだ。人間や天使、そして神様も全《すべ》て危《あや》ういバランスの上で生きている。それが崩れると、あっという間に世界は変化する。いいふうにも、悪いふうにもな」 「わかった。あー、そうだ。夜中にうちの近所で久美子さんを見たじゃないつ・あの時、どうしてあんたは夢だって言い張ったの? 久美子さんに記憶を操作されてたの?」 「時間だ」  スグルはなにも答えずに、大空に向かって羽ばたいた。 「なによ! あんた、質問に答えなさいよ! ケチ! あ! それとさ、天国にいる、あたしのお父さんとお母さんによろしくね!」  窓から顔を上げ、テンコはそう大声で叫《さけ》ぶ。しかし、その時にはスグルは遥《はる》か上空を飛んでおり、聞こえているかどうか怪しいものだった。  現に、スグルの言った 「お前を危険に晒《なもら》したくなかったからだ」という言葉は、彼女には届かなかった。 「……ま、いっか」  ベッドにトスンと座ると、疲れが全身を包む。しかし、うっかり眠ってしまう前にやらなくてはならないことがあるのだ。  彼女は部屋から出ると、佐間太郎《さまたろう》のところへ向かった。彼は、自室でボンヤリしていた。  まだ胸が痛むのか、ゆっくりとした動きでテンコを出迎える。 「どうしたんだ?」 「あー。その、ね。言うことあったんだよね」 「なんだよ。なに?」  テンコは、佐間太郎の頬《ほお》を撫《な》でた。その温かさは、真冬のコタツのように彼女を安心させる。ここにいれば、他になにもいらない、という感じのポカポカ。 「佐間太郎」 「なんだってばよ、だから」 「あたしだって、幸せになりたいんだかんね」  そう言って彼女は、彼の頬をグイッと引っ張った。  エピローグ上(うえ) 「いやあ〜、まいったよ。まったく音信不通。全然連絡つかないの。そっち、大変だったでしょ? ドアが開通したら、すぐママさん飛んできたもん。怖かったって泣いた泣いた。頭ナデナデしちゃったよ。すぐみんなのお見舞いに行ったもん。チアガール姿で応援したら、しこたま殴られたけど。元気そうでよかったよ」  ここは天国にある、パパさんの仕事場。神様の書斎と呼ばれる場所である。  地上から遥《はる》か彼方《かなた》、雲の上にポツンと存在している神様の為《ため》のスペースだ。  本棚には何語で書いてあるのかわからない分厚い本がビッシリと詰まり、部屋の中心には校長先生が使うような机とイスがセットで置いてある。  その上には大きな地球儀がフワフワと風船のように浮いており、世界と連動して天候などが変化していた。 「悪魔の力があそこまで強いとは思いませんでしたね」  そう言ったのは、スグルだ。彼は人間世界での仕事を終え、天国に戻ってきていた。パパさんはゾウさんのジョウロを使って、地球儀に水を注ぐ。 「ここ、砂漠だからさー、水あげてもすぐに干からびちゃって。やんなっちゃう」  彼はそう言うと、ジョウロを持ったまま窓際に移動した。そして、窓枠にゾウさんジヨウロをチョコンと置く。 「最近は神様なんて信じてる人間少ないからね。嫌な時代になったもんだよ。昔はもうちよつとやり易《やす》かったけどね。ここんとこさ、神は死んだなんて言い出してやがんのね。死んでないっての。そのくせ、困ったことがあると神頼みだもんねー」  スグルはフワフワと浮かび、同じように窓際へとやってきた。外を見ても雲ばかりで、他《ほか》にはなにも見えない。 「人間は絶望すると、負の力に取り込まれますからね。それを触媒にして悪魔は勢力を増しています。もっと神様を信じてくれる人間がいないと、我々もあっちの世界に取り込まれかねませんね」  スグルは苦笑しながら言ったが、パパさんは至ってお気楽である。 「今回は佐間太郎《さまたろう》がなんとかしたんでしょつ・よかったよね。ほんと」 「よかったって、佐間太郎様が強─い意志を持たなかったら、我々も飲み込まれていたかもしれないんですよ?」 「え? 悪魔に? しょうがないじゃん。その時はその時よ」  口笛を吹くパパさんを見て、スグルは思わず笑ってしまう。ボサボサの髪の毛、白いランニングシャツ、そして半ズボン。これが本当に神様なのだろうか。  あるいは、これだけくだけた彼だからこそ、混沌《こんとん》とした世界を取りまとめる重要な役目を続けていられるのかも知れない。 「なんと言いますか、あのマッタリとした家族には似合わない事件でしたな」 「なに言ってんの。日本で平和に暮らしてる間にも、どっかの国じゃ戦争で子供がガッツンガッツン死んでんだよ? 他人事《ひとごと》だと思って暮らしてちゃダメダメ。いつ自分の身に降りかかるかわかんないんだから。その時のためにも、普段から意識して臨《のぞ》まなくちゃね。マッタリと、平和をさ」  スグルは言葉に詰まる。彼の言うとおりに違いなかった。 「それにしても大人になったよね、佐間太郎《さまたろう》も。パパさん、ちょっと安心だもん。こうしてお仕事に専念できるしさ」 「そうですね」  スグルは窓枠にパタパタンと着地する。 「でもさ、スーさん寂しいんじゃないの? テンコちゃんと離れちゃって」 「一人に慣れるまでに、少し時間がかかるもしれません」 「ね。その姿、気に入ったみたいだしさ」 「あの子と過ごした貴重な時間の象徴みたいなものですからね」 「よろしくって言われてたね」  スグルはパパさんの言葉に、返答を迷う。 「そうですね。なんて答えていいやら」 「まだ内緒なの?」 「内緒です。知ってしまったら、わたしに頼ってしまうかもしれませんから。あの子には、今の状態が一番いいのだと思います」  パパさんはポケットから財布を取り出しながら眩《つぶや》く。 「そっか、大変だね。父親もさ」 「それは神様も同じじゃないですか……。って、なに出してるんですか!」 「え? 小銭。奮発して、五百円玉にしちゃおうかな。この前の誤送の件もあるし」 「誤送?」 「そう、赤ちゃんの。あれ、テンコちゃんとニァミスだったよね。わざわざ下りてもらつて運ばせちゃってさ。……ん? あれはあっちのあれか。そっか、なんでもない」  スグルには、パパさんの言っていることが理解できなかった。しかし、こういうことは珍しくない。神のみぞしることが、色々とあるらしいのだ。 「あれ、小銭見つかんない。あ、探すから、その間にゾウさんのお水、捨てておいて」  そう言われ、スグルはジョウロの柄《え》の部分に体を突っ込んだ。そして、そのまま体を傾}けて窓の外に余った水を捨てる。余ったと言っても、たった一滴だけだった。  ジョウロからこぼれた水は、ゆっくりと雲の中に落ちていった。 「あ、見っけたよ。ほいっ、五百円」  パパさんは五百円玉を彼の背中に入れる。チャリン、と少し重い音がした。 「五百円デス。合計千九百円デス。オミクジデス」  スグルの口からピロロロロとオミクジが出てくる。パパさんはそれを見て、楽しそうに声をあげた。 「おっ。大吉だってさ。待ち人来《きた》る」 「本当ですかPおお、ラッキーですな」 「ひひひ。ブタの癖《くせ》に喜んじやって。んじゃ、お仕事の話するね。今日からスーさんにはペアで仕事をしてもらうよ。大丈夫?」 「はい、承知致しました」 「お相手はコチラです。はいドーン!」  パパさんの声に合わせて、窓の外からパタパタと羽音が聞こえる。 「……はじめまして」  それは、羽の生えたブタの蚊取《かと》り線香《せんこう》だった。 「これ、新人のフーさん。こっちの貯金箱は、ベテランのスーさん。えとね、フーさんは転生したばっかだから、優しくしてあげてね」  パパさんはウインクをした。正直、似合ってはいない。 「よろしくお願いします、フミコです。わたし、前世の記憶とかなくて、その、なにもわからないのですが、よろしくお願いしますっ」  スグルは思わずパパさんの方を見る。しかし、既《すで》に彼は地球儀に懐中電灯を当てるという、他《ほか》の仕事をしていた。 「色々教えてあげて、天使の心得とか、人間のこととか」  パパさんは振り返らずに言った。スグルは、ゆっくりとフミコの方に向き直る。 「よろしく。わたしはスグル。じゃあ、まず人間……というか、我々天使にも言えることなんだが、毎日を重ねる上で一番大切なことを教えよう」 「はい、なんですか?」  ブタの蚊取り線香であるフミコは、パタパタッと羽を動かした。 「それはね、人生はいくらでもやり直しのきくものだということなんだが……」  エピローグ下(したVよく晴れた、とある平日。  神山《かみやま》家の玄関を、恥ずかしそうに出る少女がいた。  真っ白なワンピースにオレンジ色のライン。それは、菊本《きくもと》高校の制服である。 「あの、ちょっとこれ、恥ずかしいんですけど……」  久美子《くみこ》はそう言うと、下ろしたての制服に包まれた体をモジモジと動かした。 「うん、いいな、似合ってるな」 「なんで笑顔なのよ」  佐間太郎《さまたろう》のニヤリ笑いに、素早く突っ込みを入れるテンコ。相変わらず、鋭い観察眼である。 「はいはい、それじゃあ記念撮影しましょーかね」・ママさんはデジカメを持って、玄関の前にみんなを集合させた。  佐間太郎、テンコ、美佐《みさ》、メメ、そして久美子。みんなが楽しそうに笑っている。 「はい、じゃあね、チョロ美《み》さん、シャッター押してね」  当然のようにママさんが言うと、全員が一斉に言い出す。 「なんでですか! 佐間太郎でいいじゃない」 「そうね、あんたやりなさい」 「うん。お兄ちゃん、ファイト」 「あの、わたしがやりますから……」  誰《だれ》がどれなんて、どうでもいい。それぐらい穏《おだ》やかな朝で、心地よい天気だった。  ママさんは散々デジカメで写真を撮った後に 「アイコラ! アイコラ1」と言いながら家の中に消えていった。また妙なことをしなければいいが、とテンコは冷や汗を流す。  メメは小学校へ登校し、美佐は 「あ、今日は記念日だから、うちのクラス休み」と曖昧《あいまい》な嘘《うそ》をついて二度寝に向かう。記念日って、なんのつ・残された佐間太郎、テンコ、久美子の三人は、ゆったりとした足取りで学校へと出発した。  住宅街を抜け、商店街を通り、駅の向こうへ踏み切りを渡って歩き続ける。  久美子は自分の真新しい制服が周囲から浮いているようで、何度も胸やスカートの裾《すそ》の部分を引っ張った。  佐間太郎はそんな彼女を見て笑う。 「大丈夫、似合ってるよ?」  } 「うんうん、カワイイと思う」  テンコもそう続けたが、久美子《くみこ》は余計に恥ずかしくなり、さらに制服を気にすることになる。校門までの坂道に差し掛かったところで、不意にテンコが声を上げた。 「うはっ!」  なにかと思って二人は彼女の方を振り返る。 「なんか、空から降ってきた……雨?」  自分で頭を撫《な》でると、髪の毛が少し湿っていた。だが、雨雲などどこにもない。 「それ、鳥のフンなんじゃねえの?」  佐間太郎《さまたろう》が言うと、テンコの頭からボスンッと湯気が出た。 「ちょっと、なに失礼なこと言ってんのよ! 違うわよ! そんなんじゃないって!」 「あはは、あははは」  笑っているのは久美子である。心底楽しそうに、遠慮なく笑顔を振りまく。 「久美子さん、あんまり笑わないでください。失礼ですよ」 「だって、頭にフンが。あはははは」 「フンじゃないって言ってるでしょ! もー!」 「だって、フンが。あはははは」  彼女はいくら経っても笑いが収まらないようだった。どうやら彼女は、やっぱりちょっと天然らしい。 「あんまり笑うと、怒りますからね!」  既《すで》に怒り全開で、テンコは大股で歩き出した。佐間太郎も慌《あわ》ててその後を追おうとする。  しかし、久美子が小さな声で彼を呼び止めた。 「ちょっと待ってください。これ、ティッシュです。花粉症用の」  彼女はポケットティッシュを彼にコッソリ手渡す。 「え? なんでわざわざ俺《おれ》が?」 「神山《かみやま》くんが渡した方が喜んでくれるんですよ」 「そんなもん?」 「そんなもんです」  佐間太郎は 「さんきゅ」と言うと、ティッシュを渡すためにテンコを追いかけた。 「おーい、フン。待てよ!」  それじゃ喜ばないだろ。せめて名前で呼んで欲しいものだ。 「うるさい1こっちこないで!」  久美子は、そんな二人を楽しそうに眺めている。坂道の先には、進一《しんいち》と愛《あい》が手を振っているのが見えた。 「なんだか、こういうのって、いいなあ……」  …いつか、あの輪の中にすんなり入れる時がくるだろうか。なんの迷いもなく、打ち解けることができる日がくるのだろうか。彼女は、そんなことを考える。 「おーい、久美子《くみこ》さん、早く!」  気がつくと、四人が一列になって久美子に手を振っていた。 「ああっ1は、はい! 今行きますから!」  大きな声で返事をして、彼女は坂道を歩き出す。  あの輪の中にすんなり入れる時。  なんの迷いもなく、打ち解けることができる日。  それは、あんまり遠くないかもしれないな、などと思いながら。  あとがき神様家族も、みなさまの応援のおかげで三巻目を出すことができました。本当にありがとうございます。既《すで》にお読みになってくださった方はおわかりでしょうが、今回は割にハードコアです。いろいろなことがわかります。いろいろなことが起こります。  ドキドキハラハラしながら読んでくださると、とてもえーかんじやでおっちゃんほんまに。な。ちなみに、本書を読む前に、 「神様家族」と 「神様家族2」を読み返して頂けると、より一層お楽しみ頂けると思います。もちろん、未読の方でも楽しんで頂けるようには書いておりますが、前作が売れると僕が嬉《うれ》しい、というのもあります。つうか、むしろそっちがメインです。売れたい。有名人になってサインとかねだられて 「あ、ごめんなさい、今プライベートなんで」とか言いたい。ハワイのビーチとかで。よろしくです。  はい、えー、こっから与太話《よたぱなし》でございます。僕は執筆になかなか集中できないので、マンガ喫茶にノートパソコンを持ち込んで、プコプコとお話を作ることが多いのであります。  今もマンガ喫茶でプコプコやってます。いやー、凄《ナご》いですよね、マンガ喫茶。なにしろマンガがたくさん。素敵。昔読んだマンガとかを、ガシガシ読み返したりしてます。  それにDVDとか見れちゃいます。新作旧作盛りだくさん。こりゃタマラン。  しかもインターネットもできます。世界に向かってネットサーヒン1これで僕もIT社会でロボット革命な感じです。あとジュースが飲み放題。こりゃいい。甘いしね。冷たいし。ごくんごくんて。ほいであれだ、イスに座り放題。座ってても怒られない。部活の練習とかだと座ってるだけで怒られますからね。素敵です。素敵だ。なんて素敵なんざましょう。あまりにも素敵すぎて仕事なんて進みませんよ、あっはっはっ。  そんなマンガ喫茶大好き。そのうち、一家に一マンガ喫茶の時代がくると思います。  というわけで、今回も執筆にあたりMF文庫JのM様とK様にはご迷惑をおかけしました。焼肉がね、美味《おい》しかったでございます。お酒も。あとはキャワユイ女の子がいれば……。  そしてイラストのヤスダスズヒト大先生。ありがとうございました。ラヴ。  そんな感じで、あなたの本棚に 「神様家族」が三冊セットで置かれることを心より願いまして。え? 続編ですか? もちろん……、例の二人三脚で。  桑島由一ど−,ー─,iなル鵬備評蝉御蹴鰹欝欝93羅撚灘欝蘇藩鐵欄。…灘